2023年9月24日(日)
アモス8:4-7, ルカ16:1-9
富や権力を手にした時、それをどのように用いるか…そこにその人の人間性が現れる。アモス書では枡や分銅に細工をし、容量を偽って取り分をごまかし、弱い者から収奪する商人への戒めが語られる。正義と公正の神は不正を決して見過ごしにされない、と。
群馬でも江戸時代、沼田の領主(真田信利)が同じ手法による搾取をした。これに対して立ち上がった領民が『天下の義人・茂左衛門』である。いかなる権力者・お金持ちでも、不正は断じて許されない。
一方の新約は奇々怪々なイエスのたとえ話。主人の財産を使い込み、それがバレてクビになりそうになった管理人、彼は何とその主人に借財をしていた人の負債を、次々に軽減し始めたのだ。「こうして恩を売っておけば、クビになった時、家に迎えてくれるだろう」ということか。
理不尽な話である。そんな管理人はさぞかし厳しく戒められたに違いない…そんな私たちの予想を尻目に、イエスは言われる。「主人は不正な管理人の、この抜け目ないやり方をほめた」。そして「不正の富を用いてでも友だちを作りなさい」と言われるのだ。
納得いかない話であるが、イエスの真意を考えてみよう。この管理人は確かに不正な男だ。しかしその不正は、主人に対してだけのもの。一方の借財をしている人の立場に立てばどうか。それは朗報であり、借金の苦しみからの救いがある。たとえある人からは不正と見られても、苦しんでいる人が救われている…イエスはそのことをほめられているということなのかも知れない。。
富や財産というものに私たちの心はとらわれる。なぜかと言えば、自分の欲望を思い通りに叶えてくれるからだ。そして富を手にしたら、できるだけ大切に無駄にしないよう心掛ける…それは当たり前の心情だ。
しかし富や財産を大切にする、ということと、それに執着するということの違いは見きわめる者でありたい。アモス書の商人や真田の殿様は、自分の欲望を中心に考え、富に執着した。これに対してイエスが示されたのは、富を自分の欲望のためだけに用いるのではなく、隣人のために用いる道だ。そこに祝福される富の用い方・向き合い方がある。
最後に、まったく異なる解釈を紹介したい。それはこの譬えの中の「借金・負債」という言葉を、「私たちの罪」と読み替える解釈だ。聖書では神への罪はしばしば「負債」と表される(主の祈り)。神さまに対して日々罪を犯してしまう私たち。しかしその私たちが、自分に罪を犯した人を赦すなら、そこには神の祝福がある、ということだ。
人を赦すというのは難しい。自分の受けたネガティブな経験によって、私たちは「あんなヤツ絶対に赦さん!」という思いに囚われてしまう。しかし、自分が赦されていることを知るならば、そのことによって囚われから解放され、率先して人を赦す道へと進んでゆけるのではないか。