2023年11月19日(日)
出エジプト2:1-10、ヘブライ3:1-6
今日のタイトルから、心暖かいエピソードを期待したかも知れないが、実際は正反対。私たちは時に、お世話になった人を批判・告発し、対決しなければならないことがある…そんな話だ。
今年大きな話題となったジャニーズ問題が明らかになったのは、かつて育てられた元アイドルたちの告発だった。「お世話になったのによく言えたものだ」というバッシングがあったとされるが、そのような「義理と人情論」が忖度を生むならば、過ちは隠蔽されてしまう。しかし実際には、お世話になった人を批判・告発することは、心情的にはとても難しいことだ…とも思う。
旧約聖書はモーセの出生の場面である。エジプトの地で奴隷であったイスラエル人として生まれたモーセ。「男の赤ちゃんは殺せ」というファラオの命を逃れ、川辺の葦の茂みに置かれていたのをファラオの王女が見つけ、王子として育てられた。
やがて成長したモーセは、虐待されていた同胞のイスラエル人を救おうとして、逆にエジプト人を殺めてしまい、逃亡することになる。逃亡先で羊飼いの娘と結婚し、家業を手伝っていた時に神の召命を受け、エジプトで奴隷となっているイスラエルの人々を解放するリーダーとなってゆく…これがモーセの前半の人生である。
今回改めて気付かされたことは、「そうか、モーセは王子だったんだ…」ということだ。そういう育ちをした人の心境を想像しながら読むと、今までと違う側面が見えてくる。
神の召命を受けた時、モーセは何度もその召命を拒もうとする。「モーセも最初は臆病風に吹かれていたのかな…」と受けとめてきたが、今回の気付きから想像するのは、かつてお世話になった(親しく育てられた)人たちを相手に、これから過酷な息の長い闘いを始めることになる…という点だ。「義理と人情」からすれば、それは何とか避けたい…そんな心境があったのではないか。
しかし最終的にモーセは決断し、ファラオとの対決に向かってゆく。その決め手となったのは何だったのか。ヘブライ書は「モーセは神の家で忠実であったように、イエスはご自身を立てた方に忠実であられました。」と記す。「義理と人情」は人間的な思い(ヨコ軸)では断ち切れない。それを可能にするのは、神への思い、すなわちタテ軸の信仰だ。イエスはまさにそのタテ軸、即ち神の正義によって考え、行動した人だった…そんなことを示される言葉である。
モーセもそのタテ軸によって決断し、行動したのであろう。しかしその心の中には、正義感に満ちた勇ましい晴れ晴れとした思いというよりは、かつてお世話になった人たちと闘わなければならない、そのことへのためらいや悲しみがあったのではないかと思うのだ。
神の正義を求めることは、私たちにとって大切な課題である。しかし私たちは人情を抱えて生きる存在でもある。その二つの間を行ったり来たりしながら生きてゆくしかないのだと思う。