『神、われらと共に』 川上 盾 牧師

2023年12月31日(日)
イザヤ書11:1-10, マタイ1:22-23

クリスマス・年末と教会で若い人たちの活躍に、喜びと希望を抱く日々だった。個人的には事故から順調に回復し“Are”の実現も相まって、喜びの日々だった。

「好事、魔多し」である。調子に乗って筋トレに励んでいたら、腹筋・背筋を激しく痛めてしまった。うまく行ってる時ほど、無理をせず、できることを少しずつ重ねる大切さを学んだ。

今年最後の礼拝の聖句は、マタイの降誕物語の「インマヌエル預言」である。イザヤ7:14の言葉を引用し、「このことはこの聖書の言葉が実現するためであった」と語る、マタイお得意のフレーズである。

「おとめ(パルテノス=処女を表すギリシャ語)がみごもって…」と記されているところから、「処女降誕」の教義が生まれた。「神の子」イエスは、人間的な生殖によらずに生まれたとする考え方だ。しかし元のヘブライ語聖書では「アルマー(若い娘)」という単語が使われており、必ずしも処女を意味しない。「処女降誕」は事実というよりは、偉人伝説にお決まりの一種のフィクションではないかと私は思う。

大切なのはマリアが処女であったかどうか、ということではなく、その後に記された言葉である。「その名はインマヌエルと呼ばれる。それは『神、われらと共に』という意味である」、それがイザヤの預言の最大のメッセージだ。この言葉を、今年最後の聖書からのメッセージとして受けとめたい。

イザヤ(第一)の時代、アッシリア帝国によって北王国イスラエルは滅ぼされ、南王国ユダにも危機が迫っていた。現在のウクライナやガザ地区のような希望の見出しにくい状況…そんな中でイザヤは神の希望を語る。

それは神から遣わされるメシア=救い主到来の希望である。イザヤ7-11章にかけて記される一連のメシア預言(7章=「おとめがみごもって」、9章「ひとりのみどりごが生まれた」、 11章「エッサイ(ダビデの父)の根より…」)、その全体をひと言で総括する言葉が「インマヌエル=神われらと共に」なのだ。

この預言の言葉が実現したのがイエスの誕生だ、とマタイは記す。幼な子は成長し、インマヌエルを体現する生涯を送られた。最後は十字架の死であったが、神の力で復活し、そして天に昇られる直前に言われた言葉も「わたしはいつもあなたがたと共にいる」であった。マタイはイエスを「インマヌエルの主」として描き切る。

「神がいつも共におられる(見ておられる)」…そのことを私たちはどう受けとめるだろうか。苦難や試練の時は支えであり、喜び・達成の時には祝福である。しかし罪・過ちの疚しさを抱える時は恐ろしいことでもある。

けれども、神さまは監視カメラではない。過干渉な親のような存在でもない。良い時も悪い時も、私たちが「こんな自分の姿、見られたくないな…」と思う時も、私たちを見放さず、遠くから慈しみながら「見てるだけ」。そんなまなざしがあると感じるだけで、なんだか力が湧いてくる、もう一度やってみようと思えてくる、迷う時には方向を示され、過ちを犯す時には気付かせてくれる…。そして時には「あの人が見てるから、恥ずかしいところは見せられん!」と思わせてくれる…そんな神のまなざしを感じて生きることが私たちの信仰生活なのだ。

ただし無理はいけない。自分にできることを少しずつ積み上げるのでいいのだ。そしてもう一つ、「神さまは私とだけいて欲しい」と願うのでなく、「神さまをいま最も必要としている人と共にいて欲しい…」そんな願いを抱くことも大切にしたい。

♪Where is God?  (陣内大蔵)

Where is God? 神さまはどこにいる?
Where is God? いまどこにいるのだろう?
願わくば あの悲しみのそばに
あの淋しさの横に あの暗闇の上に

青い空を見上げて 僕は歌うたうよ
そよぐ風に乗っけて この歌をうたおう
もしもいま 神さまがここにいて
聞いてくれているなら 聞いてくれているなら