『新しいことを告げよう』 川上 盾 牧師

2024年1月7日(日)
イザヤ書42:1-9, ヨハネ1:29-34

コロナ状況の苦しみをくぐりぬけ、喜びをもって迎えた2024年。しかし新年早々、能登半島を襲った大震災に、喜びは憂いへと変えられた。今日のイザヤ書(第2イザヤ)にあるように、被災地において「暗くなってゆく灯心が消えずに」守られることを心から願いたい。

第2イザヤが活動したのはバビロン捕囚終盤から解放への時代。50年に及ぶ捕囚の苦しみで疲弊した人々に、イザヤは「私は新しいことを告げよう」希望を語る。それは神から遣わされる「しもべ=救い主」到来の希望である。

その「しもべ」は神の霊を身に帯び、巷の王のように言葉を荒げず、傷ついた葦を折らず、暗くなる灯心を消さずに守る。自らが神の霊を受けるだけでなく、人々にもその霊を届ける。それがイザヤを通して語られる、神の「新しいこと」である。

最初イザヤはバビロニアを破ったペルシャ王・キュロスに期待した。確かにキュロスはイスラエルを解放してくれた。しかし次第に彼もひとりの力を頼る権力者に過ぎないことに失望が広がる。そうしてイザヤがたどり着いたのは、自ら苦しみや傷を負うことによって人々に救いをもたらす「苦難のしもべ」(53章)の姿であった。神のもたらす「新しいこと」、それをさらに人々は待ち続けることになる。

そんな「新しいこと」をもたらす「しもべ」の出現を告げるのが新約の箇所である。バプテスマのヨハネはイエスの先駆者。彼は「私より後から来る方は、水ではなく霊によってバプテスマを授ける」と語った。人間が司る儀式としての洗礼ではなく、心に直接働きかける神の導きとしての洗礼を授ける人のことである。

ヨハネはイエスに出会った時、「この人こそ、それだ!」と直感し、「見よ、世の罪を除く神の子羊だ」と言った。それまでは罪の赦しの儀式の度にいけにえをささげる必要があったのに対して、自分自身がたった一度のいけにえとなり、罪の赦しと救をもたらす方…。それがヨハネがイエスに見出した「新しいこと」であった。

ではその「新しいこと」とは何か。これまで一度も見たことのない、予想もつかない初体験のことであろうか?そうではなく、それは「傷ついた葦を折ることなく、暗くなる灯心を消さずに守る」そんな救いのことである。それは「新しいこと」ではあるが、まったく見知らぬことではない。出エジプトの昔から、聖書の物語の中で何度も示されてきたことであり、この世界のあちこちに実際に現わされている、そんな救いのことである。

この世的な豊かさや快楽、権力を手にする誘惑に囚われていたのでは、その「新しいこと」は見えてこない。イエス・キリストの生き様と出会い、聖霊の導きを受け、いと小さき者を大切に思い共に生きる道を求める時、そこに見えてくる救いである。

「ゆたかでない人間の、よろこびのゆたかさ」(石垣りん)、そんなゆたかさを知ることこそ、神が与えられる「新しいこと」である…、そう信じて、新たな年・2024年も歩んでゆきたい。