2024年1月28日(日)
ヨハネ8:31-36
私たち人間は思い込みや囚われを抱いて生きている。「自分は分かっている、自由に考えている」そう思っている時にも実は何かに囚われていることがよくある。特に集団における囚われの中にある人にとって、それを自覚することは困難であろう。
アメリカの自国第一主義の大統領候補を熱狂的に支持する人々も、ロシアで戦争を始めた大統領を支持する85%の人々も、集団心理による囚われがある。私たちもとやかく言えない。78年前までは私たちの国も集団心理を抱き、戦争への道をひた走っていた。いずれも「自由に、主体的に考えている」と思いながら、何かに囚われている姿である。
「真理はあなたたちを自由にする」とイエスは言われた。この言葉は、集団的な囚われに頑迷にしがみつく人々に向けられた言葉である。言われた人々はこう返した。「私たちはアブラハムの子孫です。誰の奴隷になったこともありません」。ここにはユダヤ人が永年抱いてきた「選民意識」が表れている。
この選民意識は、度重なる苦難の歴史においても自分たちのアイデンティティを保つ原動力となった。しかしその思いが、一方では異なる民族(異邦人)への蔑視にもつながる。それは鼻持ちならないエリート意識であり、ユダヤ人の集団的な囚われであった。
「私たちは誰の奴隷にもなったことはない」と言い返した人々に、イエスは言われた。「だれでも罪を犯す者は罪の奴隷である」。たとえ身分はは自由で束縛を受けることがなくても、隣人を見下し自分の優位を誇り、神の定められた「共に生きる」という道から外れて自己中心的に生きるなら、その人は「罪の奴隷」である。
「真理はあなたたちを自由にする」― このイエスの言葉は世界中の図書館の入り口に掲げられているという。その意味することは何か?誰に命令されることなく学問の自由に打ち込むことができる...そんな自由であろう。これはこれで大切な自由である。
しかしそんな風に「自由に生きている」と思っている私たちは、冒頭で述べたように一方ではいつも何かに囚われてしまう存在である。自由の名の元に、欲望や誘惑のとりこになっているならば、それはイエスの示された本当の自由ではない。
M.ルターは『キリスト者の自由』の中でこう記した。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも隷属しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも従属する」。好き勝手に生きることではなく、愛をもって互いに仕えるところにこそ、まことの自由があるということだ。
とはいえ、私たちは所詮囚われの虜囚だ。どうせ囚われるなら、イエス・キリストに囚われよう。そうすればイエスの真理が、私たちを自由へと導いてくれるだろう。