『いつまでこの苦しみは続くのか』 川上牧師

2024年2月4日(日)
ヨブ23:1-10, ヨハネ5:1-9

「いつまでこの苦しみは続くのか?」。この問いは、終わりが見えない苦しみのただ中に置かれた人々にとって切実なものである。しかし終わりまでの道のりが見えると心の負担もずい分と軽くなる。イライラする渋滞も「あと○km」と出口が示されることで、ストレスが軽減するという。いつかは終わりが来ることを信じて待つ、それが耐え忍ぶ力となる。

聖書に、「いつ終わるとも知れぬ苦しみの体験」をテーマにした物語がある。それが「ヨブ記」だ。サタンが仕組んだ理不尽な苦しみの中で神を呪い、抗議の声を上げるヨブ。友人たちの説得には一切耳を貸そうとはしない。しかしそのヨブにも神への信仰を回復する時がやって来る。

きっかけはひとつの気付きが与えられたことだ。「ヨブにとって救いとは何か。それを決めるのはヨブではない。神だ。ヨブがこの世界を作り時を支配するのではない。世界を創造し時を支配するのは神だ。ヨブにできることはその神による救いを信じて委ねることだけだ」. . .。この気付きによってヨブは信仰を取り戻し、救いへと導かれてゆく。

ヨブ記には半世紀以上に及ぶバビロン捕囚の経験が重ねられていると思う。「いつまでこの苦しみが. . .」と嘆く人々に聖書は応える。「苦しみから解き放たれる時は必ず来る。それがいつかは分からないけれども、救いは必ず来る!そう信じて、委ねなさい」と。

新約はイエスのベトザタの池の奇跡。「池の水に天使が舞い降りて水面が動いた時、まっ先にそこに入った者は癒される」という言い伝えにより、多くの病人や負傷者が集まっていた。今日の物語の主人公は、その救いの時を求めて38年間そこに座っていた人だ。自分一人では水に入れず、誰も手助けしてくれないので、38年もの間そこに横たわっていたのである。それは期待とがっかりを繰り返した「失意と悲しみの38年間」であった。

「いつまでこの苦しみは続くのか?」そんな痛みを全身に背負った彼にイエスは声をかけられる。「良くなりたいか」 ― そんなの当たり前だろう. . .私たちはそう思うが、これは決して冷たく突き放す言葉ではない。イエスの癒しはいつもその人本人に「自己決定権」を託される。

「誰も手伝ってくれないのです。いつも他の人に先を越されるのです」. . .その38年間の孤独にようやく応えてくれる人が現れた。彼に目をとめ声をかけるイエス. . .その瞬間に彼の魂は癒しを受けたのではないだろうか。

「いつまでこの苦しみは続くのか?」そう嘆く人の現状を、劇的に変える力は私たちにはない。しかし身近にある隣人の孤独に気付いたならば、互いに寄り添い支え合うことによってそれを和らげることはできる。イエスがそんな歩みを導いてくれると信じ、共に救いの時を待とう。