『人はパンだけで生きるのではなく』 川上牧師

2024年2月11日(日)
申命記8:1-6, ヨハネ6:1-13

「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる」。これはイエスが荒野でのサタンの誘惑(「石をパンに変えてみろ」)に対して言われた言葉だが、もとは今日の旧約の箇所・申命記8章の言葉である。

この言葉を、「人間は食うて寝るという程度の低いことだけで生きるのではなく、神の言葉=信仰という高尚なことによって生きるのだ」ととらえるならば、それはとんでもない思い上がりであろう。世の中には「食うて寝る」ということを安心して手に入れられない人がたくさんいるからだ。

聖書は決して「食うて寝る」ということを軽視しない。申命記のあの言葉が語られたのは、出エジプトの「マナの奇跡」について述べた後である。奴隷から解放されたものの、荒れ野で食料が尽きて困り果てたイスラエルの民を、神はマナの奇跡で満たされた。生きるために必要な食べ物を与えた上で、もうひとつ大切なものとして「神の言葉で養われる=信仰」を示すのである。

「人はパンだけで生きるのではない。それどころかパンだけによる生は、死を意味する」(神学者、ドロテー・ゼレの言葉)。自分のパン(生きるのに必要なモノ)を手に入れることだけを考えて、「他人のことなど知らん」と関係の断絶の中に身を置くことは、生物学的は生きていても、人間性においては死んでるのと同じということだ。そんな私たちを、再び命の回復する豊かさへと導いてくれるのがイエス・キリストである…とゼレは説く。

新約の箇所はイエスによる「二匹の魚と五つのパンの奇跡」。これも「パン」に関する物語である。5000人の空腹をかかえた人たちを、イエスは不思議なわざで満たされた。「パンのことなどどうでもいい」ということではなく、パンのことを大切に思う中からこの奇跡物語は生まれたのだ。

しかしこの出来事の中で、イエスによって空腹が満たされた人は「お腹いっぱいでラッキー!」で終わっただろうか?そうではなく、人々は空腹が満たされた以上の深い体験をしたのではないだろうか。

それは「分かち合う豊かさ」という体験である。各人が自分の食べるものだけを確保しようとし、限りあるものを奪い合うのではなく、「たったこれだけ?」と思えるようなわずかなものを、それでも隣人と共に分かち合う…その中で感じる豊かさ。そしてその中心にイエスがおられるということ。そんな共に生きる豊かさこそが、「パンだけによらない生き方」である。

私たちひとりひとりは「二匹の魚と五つのパン」のような小さな存在である。しかしその小さな歩みの中で「パンだけによらない生き方の豊かさ」を証しすることはできる。自分のパンと魚を差し出したあの少年の姿に倣い、小さな自分の存在をイエスに委ねて、共に生きる歩みを目指そう。