2024年2月18日(日)
出エジプト17:3-7,マタイ4:1-11
レントに入った。40日間の「克己・修養・悔改」の時である。自分の罪を認め悔い改めるという作業はあまり心地よいものではない。しかしそれをせざるを得ないのが私たちの現実である。
「40」という数字は、一定の試練・苦しみの期間を通して、新たな世界が開かれ救いへと導かれてゆく…そんな期間を表す。ノアの箱舟、シナイ山でのモーセの十戒授与、神の山ホレブでのエリヤ、いずれも「40日40夜」を過ごしたと記される。それは神の救い・新たな秩序に入る前に定められた、試練・苦難の時である。
それにしても、どうして救いにあずかるために、試練の時を経ねばならないのだろう。一足飛びに救いへと導いてくれたらどんなにありがたいことか…「神さま、いじわるやなぁ」そんな思いを抱く。しかし、「そういうもの」なのだ。一足飛びに救いが与えられたら、喜びもまた大したものでなくなってしまうことだろう。
人生にはどんなに避けたいと思っても、試練・苦難の時が訪れる。それを避けずに受けとめ潜り抜けたところに、本当の喜びがあるのではないか。それはちょうど夜明け前の闇が最も深いように、子どもが生まれる前には大きな痛みがあるように…。
イエスは宣教活動に入る前に、荒野でサタンの試みにあわれた。「霊がイエスを導いた」と記される。なぜ聖霊はイエスを試練へと導いたのか。またイエスはなぜその導きに従ったのか…。それは「試練によって成長するため」、それを知っておられたからではないか。
ただ、試練や苦難が必ずしも人間を成長させるとは限らない。出エジプトの救いを与えられたイスラエルの民は、しかしその自由へと向かう旅の途中の試練の中で、何度もモーセを恨み不平不満を漏らした。その自己中心の姿、それは自分の姿でもあるように思う。
イエスは試練の中で成長し、イスラエルは無様な姿をさらした。何が違うのか。それは試練との向き合い方・受けとめ方ではないか。イスラエルは試練を避けることだけを考えた。それで実際の試練の中では崩れ果ててしまった。イエスは試練を避けず、むしろそれを受け入れて歩まれた。そこに成長が与えられるのだ。
「私たちは苦しみを避け、逃れることで癒されるのではない。苦しみを受け入れ、苦しみを通して成長し、キリストと一致することに意味を見出すことによって癒される」。元ローマ教皇・ベネディクト16世の言葉である。キリスト教の信仰は、人間にとっての苦難の意味を、そのように深くとらえる洞察を与えるのである。
誰にとっても試練や苦難はイヤなものである。しかしそれを、ただマイナスとしてだけ受けとめ、逃れることばかりを考えるところには、人間の成長はない。むしろそれをしっかり受けとめ、そしてイエスの苦しみとつながることによって、私たちは成長へと導かれるである。