2024年2月25日(日)
列王記下6:15-17, ヨハネ9:35-4
『目が開かれる体験』というものがある。心理学では「アハ体験」と呼ばれるが、ある時の閃きで世界の真理を悟るような体験。ニュートンのリンゴの木や、アルキメデスの風呂での定理の発見などがそうである。一度それを体験してしまうと、もう世界が違って見えてくる…そんな体験である。
旧約はエリシャの物語。アラムの戦いの中で、アラムの軍隊に街の四方を囲まれ狼狽えてしまったイスラエルの人々に、エリシャは呼びかける。「恐れてはならない。彼らより我らの方が多い」。そして「主よ、彼らの目を開いて、見えるようにして下さい」と言うと、火の馬と戦車の天の軍勢が現れた…そんな物語だ。
突然のピンチに怖気づいて「もうだめだ!」とパニックに陥る…それは「目が遮られたままの状態」だ、しかし信じて祈れば目は開かれ、道もまた神によって開かれる…そんなことを示すエピソードである。
18節以下ではそのアラムとの闘いの顛末が記される。神がアラムの軍隊の目を遮り、エリシャが巧みにいて捕虜とした。イスラエルの王が「この者らを打ち殺そうか」と尋ねると、エリシャは「殺してはならない。むしろ手厚くもてなしなさい」と応じた。
「主によって目が開かれた者」は、敵に対する傍若無人な権利を得たのではない、敵とは言えども誠実に向き合いなさい…とエリシャは言うのである。現在のイスラエル政府に聞かせてやりたい言葉である。
新約はシロアムの池での盲人の癒しの出来事。弟子たちが盲目の原因を本人または先祖の罪に帰そうとするのに対して、イエスは「誰の罪でもない。神の業が現れるためだ」と言われ、その人を癒された。身体の機能の回復だけでなく、「罪の呪縛」からの解放、それがイエスの癒しである。
イエスは彼の身体の目を開いただけではなく、心の目も開かれた。この後、その人は律法学者たちから問い詰められそれに答えているが、実に堂々と臆することなく対応している。そこには何の萎縮も忖度もない。心の目が開かれたからだ。そこには神によって救われた人の輝きがある。
律法学者たちは彼の態度に腹を立て、外へ追い出した。そこにイエスが現れ「あなたは人の子を信じるか?」と問うと、「主よ、信じます」と答えた。するとイエスは言われた。「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。律法学者のように心の目が開かれることを拒む人、それは「自分たちは正しい」と頑迷に思い込む人のことなのである。
しかし目が開かれる体験には、輝かしいだけではない、もう一つの側面があることも忘れてはならない。それは今まで見えなかった(見なくてもよかった)罪や過ちまでもが見えてしまい、それらと向き合わざるを得なくなる、というさだめである。目が開かれた人が、その思いを実践しようとすると、様々な妨害や中傷にさらされることがしばしばある。それは「茨の道」である。
イエス・キリストはまさにそのような茨の道を歩まれた。イエスこそ「目が開かれた人」だったのだ。その素晴らしさと過酷さを示すのが、十字架の苦しみなのである。