『油注がれた者』 川上牧師

2024年3月10日(日)
サムエル上10:1,6-7, ヨハネ12:1-8

「油注がれた者」と聞いて、教会に長く通う人はピンとくるが、そうでない人には何のことか分からないであろう。しかしその言葉の聖書の原語・ギリシャ語の単語は誰もが聞いたことのある言葉である。「クリストス(キリスト)」、それは旧約聖書ヘブライ語の「メシア(油注がれた者の意)」のギリシャ語訳で、「救い主」を表す言葉である。

もともとそれは、王の任命の際に頭に油を注いだことから始まる儀式である。そもそも、なぜ頭に油を注ぐのか?それはイスラエルの祖先・遊牧民の頃からの習慣だそうだ。

羊の体にはノミやいろんな虫がついており、それが耳の中に入ると命に関わることもあるという。それで羊飼いは羊の頭に油を塗り、虫が滑って耳に入らないように予防をした。このことが転じて、神に守られ祝福を受けるしるしとして、頭に油を塗るという儀式となった。

今日の旧約は、イスラエル初代の王・サウルの任命の場面である。それまで王はおらず「士師」と呼ばれるリーダーが率いる時代であったが、周辺諸国との戦いに臨む中で、より強力なリーダーを求める声が上がり、預言者サムエルはサウルを選び、頭に油を注いで王に任命した。サウルの後継者ダビデもまた、サムエルから油を注がれている。

サウルの任命にあたりサムエルは「あなたのしようと思うことは何でもせよ。神があなたと共にいる」と告げた。サウルはこの言葉を「自分は神から全権委任を受けた」と受けとめた。ここからサウルの転落が始まる。「油注がれた者」、それは神に忠実に歩むために選ばれたしるしであったが、サウルはそれをとらえ違えてしまったのだ。

新約の箇所にも「油注がれた者」の姿が描かれる。それは他でもない、イエス・キリストご自身である。ベタニアを訪れた際に、マリアから高価なナルドの香油を注がれた。ヨハネ福音書ではマリアは頭ではなく足に油を注ぎ、髪の毛でそれを拭ったと記される。間近で目撃したらちょっとギョッとする光景、とても強い感情が表されているように思える。それは直前に記されたマリアのきょうだい・ラザロの復活の奇跡に対する感謝の気持ちの表れであろう。

それを見ていたユダが「何ともったいない!それを売れば貧しい人を救えるのに」と咎めた。するとイエスは「するままにさせなさい。私の葬りのためにしてくれているのだ」と言われた。香油を注ぐ行為、それは当時の葬りの営みと深い関係がある。

マリアに「私はイエスさまの葬りの準備をしてるのだ」という意図はなかったかも知れない。しかし十字架への歩みを決意したイエスはそう受けとめた。マリアは期せずしてイエスの思いに応えたのだ。

油を注ぐことは神がその人を守り、力を与えるしるしだ…と最初に述べた。しかしイエスの場合、力を与えるどころか、神が示されたのは人々の救いのために十字架で苦しむ道だった。「油注がれた者」とは、人々の上に君臨し権力をふるう人ではなく、隣人のために苦しみを負う人のことなのだ。