2024年3月24日(日)
セカリヤ9:9-10, ヨハネ18:28-40
本日は棕櫚の主日。イエス・キリストがエルサレムに入城する際に、迎える人々が王の象徴である棕櫚の葉を振り、「ホサナ(救いたまえ)!」と叫んで迎えた。その歓声の中をイエスはロバの子に乗って進んで行かれた。
イエスのこの振る舞いにはシナリオがある。それがゼカリヤ書の言葉である。たくましい軍馬ではなく、力弱いロバの子に乗って進まれるイエス。その姿は、これから始まるイエスの「たたかい」が、武器で相手を打ち負かす「戦い」ではなく、あくまでも平和裏な形の「闘い」であることを表している。
迎えた人々の中にはそのイエスの姿に違和感を抱いた人もいたのではないか。「こんな弱っちい男が、はたして我々を救ってくれるのだろうか?」と…。勝手に期待し、勝手に失望して、その相手に憎しみを抱く…そんな身勝手な群衆の姿がこれから現れるのである。
エルサレムでイエスは神殿粛清を行なった。これが決定的なこととなり、律法学者・祭司長たちはイエス抹殺計画を実行に移してゆく。ユダの手引きによってイエスを捕えると、ある人物のところに連れてゆく。ローマ帝国ユダヤ総督であったポンテオ・ピラトの元である。
「ポンテオ・ピラト」。彼の名はキリスト教の歴史で2000年にわたって語り継がれてきた。使徒信条に「主は(中略)…ポンテオ・ピラトの元で苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ…」とある。この文章だけを読む人は、イエスを十字架につけたのはポンテオ・ピラトだと思うだろう。
しかし実際にイエスを十字架に追いやったのはピラトではない。彼はユダヤの最高権力者として、訴えに対する判断をしただけだ。それどころかピラトはイエスに興味を抱き、訴えが祭司長たちのねたみであることを知ると、イエスを赦そうとすら振舞うのである。
そう考えると、使徒信条で、さも彼一人の責任のように言われることは、ピラトにとって気の毒にも思う。私たちが使徒信条を告白する時、何よりもまず祭司長や律法学者のことも思い浮かべる必要がある。
しかしピラトにまったく責任がないわけでもない。彼はイエスの姿に興味は抱いたが、敬意は抱かなかった。赦そうとしたが、それは自分の在任中に汚点を残すことをしたくなかっただけだ。結局のところ、彼が大切にしたのは真実ではなく、自分の立場でしかなかったのだ。そんな人間誰しもが抱く「保身的な心」がイエスを十字架に追いやった…このことも心にとめたいと思う。
もうひとつ、私たちが「ポンテオ・ピラトの元で…」と告白する際に思い浮かべるべき存在がある。それは私たち自身の姿だ。イエスがまったく無実の罪で裁かれようとしているのに、逆恨みの中で「十字架につけよ!」と叫んだ群衆、あるいは真実を知りながら、声を挙げることができず黙って見ているしかなかった人々、その中に自分もいるのではないか…そんなふりかえりの中で、「ポンテをピラトの元に…」と告白することが大切なのだ。