『おはようとのあいさつで』 川上牧師

2024年3月31日(日) イースター
マタイ福音書28:1-10

イエス・キリストがポンテオ・ピラトの元で十字架につけられ、「わが神、わが神、なぜ私を見捨てるのですか!」と叫んで息を引き取られた時、イエスを信じて従ってきた人々は「終わった」と思った。それは信じる人たちにとって痛恨の出来事であった。

イエスが息を引き取ったのは金曜日の夕方、もう安息日が始まろうとしていた。人々は急いでイエスの遺体を引き取り、墓に納めた。アリマタヤのヨセフという人が勇気を出して申し出たのだ。自分の作った新しい墓にイエスを納め、重い石の蓋をした。そして安息日を過ごした。

安息日が終わり、日曜の朝に女たち(マリア)が墓に出かけた。金曜日にはあまりに急いでいたために、香油を塗ることができなかったので、それを塗りに行ったのだ。すると重い墓石がどけられており、中にイエスの遺体はなく、代わりにみ使いが座ってこう言った。「あの方はここにはおられない。かねて言われた通り、復活なさったのだ。」

確かに生前イエスは、自身の苦難の死と復活を予言しておられた。しかし弟子たちはその時、その言葉の真の意味を理解していなかった。女たちもその予言を聞いたかも知れない。しかしあまりにも絶望的な十字架の死の現実を前に、そんな言葉は忘却の彼方に置き忘れたままであったことだろう。

み使いは続けて言った。「急いで弟子たちに伝えなさい。あの方は復活し、ガリラヤに行かれる。そこでお会いできるであろう」。女たちは恐れながらも急いで弟子たちのところに向かった。その途中で恐れがだんだんと喜びに変わっていった。

するとその行く手にイエスが現れた。そしてイエスの方から彼女たちに声をかけられた。「カイレーテ!(よろこべ)」。ギリシャ語のあいさつの言葉だ。イエスが実際に話したアラム語では「シャローム(平和があるように)」だったことだろう。

このイエスのあいさつの言葉、以前の1954年版の口語訳聖書では「平安あれ」、もっと古い文語訳聖書では「安かれ」と訳された。いずれももったいつけた、威厳ある言葉のように思える。ところが新共同訳聖書では「おはよう」と訳された。私はこの訳語初めて見た時に驚き、そして同時にそこに深い意味あいを感じた。

よみがえりのイエスと、女たちが(そして後に弟子たちも)最初に交わした言葉が、「おはよう」という日常のごくささやかな言葉であったということ、そこに大切なことが示されているように思えたのだ。

惨めで絶望的な十字架の死、しかしそれですべてが終わったのではない。神の偉大な救いの力は、死の力を乗り越える希望を示してくれる ― それがイースターの喜びだ。しかしそのことが、何か特別な栄光のステージにおいて示されるのではなく、日常の、ごくささやかな事から始まっていく…そんなことが示されているように思うのだ。

わたしたちも「おはよう」という日常のあいさつの言葉を大切にしよう。そしてささやかなその日常の営みを大切にしよう。「おはよう」とのあいさつの言葉を、心をこめて交わす時、そこによみがえりのイエスも共におられるのだ。


「おはよう」とのあいさつも 心を込めて交わすなら
その一日お互いに 喜ばしく過ごすでしょう
愛のわざは小さくても 神のみ手がはたらいて
悩みの多い世の人を 明るくきよくするでしょう
(旧讃美歌第2編26)