『息を吹きかけられて』 川上牧師

2024年4月7日(日)
出エジプト15:6-11、ヨハネ20:19-29

旧約の出来事でイースターによく引き合いに出されるのが出エジプトの出来事である。「過越の出来事」によって与えられた解放の救いと対比して、イースターは「新しい過越」とも言われる。その出エジプトの物語の中でクライマックスとも言えるのが「海の奇跡」である。

神の大いなる救いを讃える「海の歌」(出エ15章)では、「あなたが息を吹きかけられると、海は敵を水の中に沈めた」(15:10)と歌われる。創世記・人類の創造以来、「神の息」とは人間の命の源である。その神の息による奇跡が、奴隷の苦しみに喘ぐイスラエルに救いをもたらす。神の息によって救われたイスラエルの民は、約束の地・カナンにおいて新たな歩みを始めるのである。

この神の息のモチーフは、ヨハネ福音書での復活物語でも大切なものとして語られる。週の初めの日の夕方、家の扉に鍵をかけて家の中にいた弟子たち。「ユダヤ人を恐れて…」と記される。イエスを見捨てて逃げ去った心をまだ引きずる弟子たちの姿である。

するとどこから入られたのか、よみがえりのイエスが現れて彼らに声をかけられた。「シャローム(平安あれ)」。マタイでは「おはよう」と訳された言葉だが、夕方なのでさしずめ「やぁ!」という挨拶だろうか。肝心の時に自分を見捨てて逃げ去った弟子たち…情けない気持ちを引きずる彼らに、イエスの方から近付いてきて「やぁ!」と挨拶の声をかけられるのである。

続けてイエスは言われた。「父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わす」…そう言って、彼らに息を吹きかけられた、と記されている。このイエスの姿を、今日は大切なメッセージとして受けとめよう。

子どもの頃、「人の顔に息を吹きかけるのは、その人をバカにするような態度だから、やってはいけません!」とよく怒られた。映画などでタバコの煙を顔に吹きかけるのは、挑発や誘惑のサインでもある。しかしこのイエスの振る舞いは、弟子たちを愚弄したり、挑発・誘惑するものではないと思う。それは赦しのサインであり、信頼を表す振る舞いであり、祝福のしるしだと思うのだ。

弟子たちに息を吹きかけ、続けてイエスは言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でもあなた方が赦せば赦される。赦さなければ、赦されないまま残る」。これはこのあと弟子たちが経験することになる、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事と、そこから始まる教会の宣教の歩みを示唆している。

ペンテコステに与えられた聖霊の導き、それも「神の息」と称される。弟子たちは生前、イエスを完全に理解できた訳ではなかった。そして今も弱さを抱えたままである。しかし「そんなお前たちを、それでも私は信頼してるよ、愛しているよ…」そんな思いを込めて、イエスは息を吹きかけられるのである。

弟子たちは「息を吹きかけられた者」として新しいステージに向かう。今度はイエスを頼ることなく、試行錯誤を重ねつつ、自分の足で歩き、自分の頭で考えながら。

私たちにも神の息は吹きかけられている。私たちはそれを見ることはできない。しかし感じることはできる。目には見えない風を感じられるように。その息を吹きかけられた者として、それに応える歩みを作り出してゆこう。よみがえりのイエスと共に、神の赦し、そして神の愛を感じながら。