『やり直しのチャンス』 川上牧師

2024年4月21日(日)
イザヤ62:1-5,ヨハネ21:15-19

旧約ではバビロン捕囚の苦しみからの解放を、花婿が花嫁を迎える喜びに譬えている。イスラエルの人々は捕囚の苦難を、ヤハウェに忠実に歩まず罪を重ねたことへの報いと受けとめた。その苦しみからの解放、それは罪人の与えられた赦しの宣告とやり直しのチャンスなのである。

罪の赦しの宣告とやり直しのチャンス…このことはよみがえりのイエスとの出会いの中で、弟子たちが示されたことでもある。筆頭弟子のペトロは、イエスが十字架にかけられるため捕えられた時、取り返しのつかない過ちを犯してしまう。

イエスを見捨てて逃げ去り、仲間であることを疑われると「あんな人のことは知らない」と3度にわたってイエスとの関係を拒んでしまったのだ。十字架刑の後、ペトロをはじめ弟子たちは、情けない思い・恥じ入る気持ちを抱いて過ごしていたことだろう。

しかしそんな彼らに「主イエスはよみがえられた」という知らせが伝わる。そしてイエスは弟子たちの前に現れ、一緒に食事をされた。今日の箇所はその再会の食事の直後の出来事を伝える。

イエスはペトロのところに近付いてきて言われた。「ヨハネの子シモン、この人たち(他の弟子たち)以上に私を愛するか?」。ペトロは答える。「はい、私があなたを愛していることはあなたがよくご存じです」。同じやりとりが2度、3度と繰り返される。

この3度という回数は、ペトロがイエスのことを3度拒んだことと対応する。「イエスが3度も同じことを聞くのでペトロは悲しくなった」と記される。これはイエスの仕返しだろうか?ネチネチと気持ちを追い詰めるいやがらせだろうか?

実は日本語では分からない「しかけ」が原書のギリシャ語聖書にはほどこされている。最初のイエスが「愛するか?」と訊かれた時には「アガパオー?」という言葉が使われている。「アガペー(=愛)」の動詞形、神さまの愛・見返りを求めずにその存在そのものを愛する、という言葉である。

このイエスの問いにペトロは「フィレオー」と答える。友愛・兄弟愛を表す言葉だが、振り向いてもらうことを求める人間的な愛を表す言葉である。人間的な弱さを抱えたペトロは、イエスの「アガパオー?」に対して「アガパオー!」と答えられなかったのである。

ところが3度目、イエスの問いは「フィレオー?」に変わっている。ペトロの人間的な思いに基づく愛、「その愛でもいいから私を大切に思っておくれ…」とイエスは呼びかけられる。これは仕返しの言葉ではない。ペトロの弱さを受け入れつつ、それを踏み越えて新しく生きよ!という、赦しの宣言、そしてやり直しのチャンスと告げる言葉だと思う。

3回のペトロの答えに続けてイエスは毎回同じ言葉を語られた。「私の羊を飼いなさい」。「羊」とはイエスを信じる人々のことだ。この言葉通り、ペトロは初代教会の指導者となり、命をかけてイエスを信じる信徒たちのお世話をした。イエスによって与えられたやり直しのチャンスを、ペトロはしっかり生かして歩んだのだ。