『神の霊を受け、再び立ち上がる』川上牧師

2024年5月19日(日) ペンテコステ礼拝
エゼキエル37:11-14, ヨハネ14:15-27

枯れた骨のようになって、憔悴しきって横たわる…そんな経験をされたことがあるだろうか。自らの失敗、人間関係のもつれ、大事な人を失った悲しみ…そんな時は身も心も疲れ切っているはずなのに、眠れないものだ。

私も50歳を過ぎての前橋赴任直後、新しい環境になかなか馴染めず、「適応障害」のような状態に陥ったことがあった。夜深く眠れず、早朝に目が覚める。脳みそだけが熱く、身体は冷え切っている。自分でも不本意で焦れば焦るほど朝目が覚める。悪循環である。

そんな焦りを和らげ、深い眠りを少しずつ取り戻すきっかけを与えてくれたのがJAZZのセッションに通うことであった。ここで「それは祈りでした。」「信仰でした。」と言えないことに、牧師としては忸怩たるものを感じるが、本当のことである。あの時神さまはJAZZを通して私に力を与えて下さったのかも知れない。

旧約はエゼキエル書に記された「枯れた骨の復活」。エゼキエルの語る枯れた骨とは、バビロン捕囚で疲弊したイスラエルの民のことである。絶望の日々の中で自暴自棄に陥る人々に向かって、神の霊によって再び立ち上がる日が来ることを告げる。それは憔悴し眠れぬ夜に悩む人に、「大丈夫、必ず朝は来るから」と語るようなものである。

ペンテコステの出来事も「枯れた骨の復活」と言えるだろう。イエスが十字架につけられようとする局面で、師を見捨てて逃げ去ってしまった…そんな自分たちへの自責の念に苛まれ、眠れぬ夜を過ごしたことであろう。その後復活の喜びに出会えたのも束の間、イエスは天に昇り再び「師の不在」という状況を迎える。再び不安と恐れとの状況である。

そんな彼らに突然ふしぎな風が吹き、頭に舌のような炎=聖霊が降り、強められた弟子たちは立ち上がり、イエスの福音を伝え始めた…それが使徒言行録に記される聖霊降臨の出来事である。イースターから50日目のことであった。

聖書では、聖霊の導きによって突然弟子たちが変えられたように記される。ほんとかな?と思う。そんなに一瞬で人は変われるものだろうか?実際には50日の時を経て、徐々に再起へと導かれていったというのが実情ではないか。

逆に言えば、どんなに沈んだように思えても、しばらくの期間の後に回復の道が備えられるということでもあると思う。聖霊の導きは、枯れた骨のような日々にいのちを回復させて下さる。モノトーンに沈んだ日々に、色を取り戻させて下さる。50日もあれば、それはきっと実現する…それがペンテコステのメッセージである。

イエスは「弁護者(=聖霊)が来るときに、私が話したことを思い起こさせて下さる」(ヨハネ14:26)と語られる。聖霊の導きとは、私たちがまったく聞いたことのない真理を与えてくれるというものではなく、すでにイエスによって語られた真理を思い出させてくれる・気付かせてくれる、ということだ。聖霊とは「気付かせて下さる神の働き」のことなのだ。

コロナ状況の中、枯れた骨のようになった私たちにも、きっと神さまのふしぎな風は吹いてくる。気付きを与えられて新たな伝道の季節向かって歩んでゆこう。