2015年4月26日(日)
フィリピの信徒への手紙3:12-16
(教会定期総会の日のメッセージ)
2015年度の教会年間標語を「前に向かって橋をかけよう」としたい。来年に迫った創立130周年を意識してのことである。「前」に向かって「橋」をかける、というところにわが街・前橋への思いも込めた次第である。
今日の教会総会で具体的に130周年事業について話し合うが、その取り組みが単年度の花火に終わるのではなく、教会の将来の歩みにつながることを意識していきたい。これからいろんなことが提案されていくだろうが、それを「今ここにいる自分」がどう思うか、ということだけでなく、「これからの時代・世代のために何ができるか、何が必要か」そんな視点で受けとめ、考えていただきたい。
前橋教会の歩んできた130年の歴史の中には、多くの人々が教会に集まり教勢的に進展した「輝ける時代」があった。しかし今後のことを考えると、現状の活動を維持しているだけではなかなか展望が見えてこないようにも思う。「前に向かって橋をかける」何らかの取り組みが必要だと思う。
「うしろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ…」とパウロは語る。過去の歴史は忘れてしまえ、ということか?過去の歴史を担って下さった方がおられたからこそ、今がある。感謝の気持ちを忘れてはならない。また、過去の歩みは「よいこと」ばかりがあった訳ではない。弱さゆえに罪を犯した事実もあった。戦後70年、過去の戦争での加害の歴史を「なかったこと」にしようという動きに対しても、批判的な思いを抱かざるを得ない。過去を大切にふりかえることはとても重要なことだ。
しかしそのように過去の歴史を大切にすることと、過去の栄光や伝説に「しがみつく」ことは、別のことだ。「うしろのものを忘れ…」というパウロの言葉は、「過去の栄光にすがりつくのはやめなさい」ということだ。
そう語るパウロ自身、自分の過去の栄光を誇っていた時代があった。ファリサイ派のエリートとして、律法に忠実に生きる自分の姿を誇りに思っていた。しかしイエス・キリストに出会ってからは、それらのものを「ちり・あくた」のように思うようになった。十字架の死に至るまで隣人を愛し続けたイエスを救い主と信じ、過去の栄光をかなぐり捨てて、新しく生きる者となる…それが「うしろのものを忘れ、前のものに全身をむけつつ」というパウロの言葉の意味である。
大切に重ねてきた前橋教会の130年の歴史。その中には宣教の取り組みによって多くの実を結んだ「輝かしい日々」もあった。それらの日々もイエス・キリストに導かれた日々であることは言うまでもない。しかしこれから始まる新しい日々は、それらの過去の歩みとつながってはいるが、また別の歩みである。これまでと同じような歩みが、これからもずーっと確約されている訳ではない。むしろ新しい発想や感性による取り組みがこれからますます必要になってくるような予感がする。
人間とは本来保守的な生き物である。新たな変化を好まない・望もうとしない、そんな気質が誰にでもある。しかしその思いに引きずられて変わることをためらっていると、時代そのものに置いて行かれるかも知れない。「ある程度」うしろのものを忘れなければ、新しいものは立ち上がっていかないのではないか。
教会には時代が変わっても変わらずに受け継いでいくべき大切なものがある。しかし一方では、時代と共に変えるべきものもある。あっていい。「変えられないものと、変えられるもの」それら2つのものを見分ける知恵を祈り求めつつ(R.ニーバー)、前に向かって橋をかけよう!