『 答えは風の中に 』  川上牧師

2024年6月2日(日)
ヨハネ3:1-15

先週、関東教区総会が行われ、参加してきた。いわゆる「シャンシャン総会」、その意味で「無風」の総会であった。そんな中、議場に風が吹くのを感じた時間があった。「教区のこれから~財政と宣教の取り組み」というテーマで、協議会が行われた。高齢化が進み教会員が減少し、人もお金も目減りする現状でどのように歩んで行くか…普通なら沈みそうになる課題であったが、いくつも前向きな意見が語られた。

複数の教会が協力して共に歩む共同牧会の話、若い人や傷ついた人の癒しの場としての教会の可能性、そんな発言が相次いだ時、風が吹くのを感じた。教会がじっと動かないでただ人が来るのを待つのではなく、新たな人と出会おうとして動こうとする…そこに風が吹くのだと感じた。

ペンテコステは風の起こした奇跡である。師であるイエスを天に送り、「師の不在」の状況で不安と心配の中にあった弟子たちに、神さまの聖霊の導きが降り、教会の宣教が始められた日である。

私はこれまで、師を失い意気消沈していた弟子たちに聖霊が降った…そんな風にイメージしていた。しかし彼らはただじっとしていたのだろうか、そうではないのではないか…教区総会の協議会の様子を見ながらそんなことを考えていた。

弟子たちがユダヤ人の目を恐れて不安を感じていたのは事実であろう。しかし彼らはただ動かずにじっとしていたわけではなかった。彼らは時折集まっていたのだ。それは危険なことである。助かりたければ、個々バラバラに隠れているのが一番だ。しかし彼らは集まり、そして祈っていたのだ。

彼らは動こうとしていたのではないだろうか。動き出してイエス・キリストのことを語り伝えたい…そんな思いを抱き危険を冒して集まっていたのではないだろうか。でも彼らの力だけではできなかった。恐れや不安を打ち破る最後のひと押しのエネルギーが生まれなかった…その最後のひと押しを、不思議な風が与えてくれたのではないか。

今日の箇所はイエスとニコデモとの印象深い対話である。イエスは「人は水と霊とによって新しく生まれなければ救われない」と言われた。これを「洗礼を受けなければ救われない」と受けとめる解釈もある。しかし私はそんなキリスト教という一宗教の儀式に収まるような話をされたのではないように思う。そうではなく、風に吹かれて心が大きく揺さぶられて心機一転新たにされる…そんなダイナミックな経験のことをイエスは語られたと思うのだ。

風は思いのままに吹く。その自由な息吹を受けて、心が熱く燃えるような体験…それは受洗・未受洗の違いを超えてすべての人に開かれているものではないか。そしてそれは生涯ただ一度しか体験できないようなものではなく、何度でも体験できるはずのものだ。

ただしその風を感じるには大切な前提がある。私たちがただじっとして動こうとしないでいる限りにおいては、そこにはなかなか風は吹いて来ない、ということだ。不安や恐れをかかえながらも、変化を恐れず心を開いて動き出そうとする. . .そんな私たちに、神さまの不思議な風がびゅうっと吹いてくる。