2015年5月24日(日)ペンテコステ礼拝
創世記11:1-9,使徒言行録2:1-11
福島県・二本松市の仮設住宅を訪ねてきた。原発事故によって浜通りの浪江町から避難してきた人たちだ。現代の『バベルの塔』である原発によって、バラバラに住むことを余儀なくされた人たち。その口惜しさ・憤りはいかばかりだろう。
今日はペンテコステ。バベルの塔の物語と対をなす物語である。その昔、自らの力を過信した人間たちによる「神のようになってやろう」との不遜な企てに対して、神は人の言葉を「乱す」ことによってコミュニケーション不全状態に陥らせ、民をバラバラに分散させられた。「なぜ人間は異なる言葉を話すのだろう?」という古代人の疑問に答える「原因譚」である。
はるかの時を経て、聖霊を注がれたイエスの弟子たちは、様々な国・民族の言葉を語り、イエス・キリストの福音を伝えて行った。これは弟子たちがいきなり語学の天才になったということではなく、この日を境に、イエス・キリストの物語が、世界の人々に語り始められていったことを表している。
「神のようになってやろう」という罪によって、異なる言葉を用いることになり分かたれてしまった人間が、そのバラバラとなった現実を乗り越えて、ひとつにされる。しかもそれは「再び言葉を一つにする(統一する)」という方法ではなく、「それぞれの言葉によって、ひとつの真実を聞く」という方法によって一つにされるということである。「ひとつの真実」とは何か。それはイエス・キリストによる罪のゆるしということである。
聖書はそこに神の目に見えない導き、すなわち「聖霊の導き」があると語る。聖霊の導きにより罪ゆるされ、分かたれた民が再び一つになる…それがペンテコステの出来事なのだ。
讃美歌419「さぁ共に生きよう」は、米ソ冷戦時代東西に分かれていたドイツの現実の中で生まれた讃美歌だ。「さぁともに生きよう/主は聖霊により/分かたれた民をも/ひとつとなされる」。イデオロギーの違いによって二つに分かれてしまった国が、神の導きによって再び一つになるようにとの祈りが込められている。「そんなことは現実に起こりえない」と思われていた時代もあったが、その祈りは1989年11月、現実のものとなった。
遠いヨーロッパの出来事だけではない。私たちの身近にも南北に分かれる朝鮮半島の現実がある。そしてその分断を生み出したのは、35年に及ぶ日本の植民地統治と、戦争末期の敗戦受諾決断の遅れである。ポツダム宣言受諾があと十日早ければ、ソ連の参戦も、広島・長崎の原爆も前橋の空襲もなかった。南北朝鮮の分断の発端となる歴史に対し、日本は大きな責任を持っていることを忘れてはいけない。様々な困難を乗り越えて、南北に分かれた国が再び一つとなれるよう祈りたい。
人間は様々な理由によって分かれ分かれになってしまう。国と国、民族と民族の間だけでなく、個人の間でも。その分断の背後には、人間の罪が大きく横たわっている。しかし私たちはその現実を前にあきらめてはならない。希望を捨ててはならない。私たちの信じる神は、そんな「分かたれた民をひとつにされる方」だからである。