『 光に従う歩み 』 川上 盾 牧師

2024年8月25日(日)
出エジプト13:17-22、ヨハネ8:12-20

夏休みで函館旅行に出かけた。函館山からの夜景を楽しみに登ったが、霧がかかっていてよく見えなかった。夜景はすぐそこに「ある」のに、見えなくするものがあって「見えない」。

都会の夜の星空も、ふだんは街の明かりが強すぎてあまり多くは見れない。しかし時折全戸停電などにより、満天の星空が拝める時がある(たとえば東日本大震災当日の夜)。それは「感激」を越えた「霊的」な体験だったと多くの人が証言しておられた。

今日の箇所は新約も旧約も「光に従う歩み」に関する箇所だ。旧約は出エジプト記。奴隷から解放され、約束の地に至るまで荒野をさすらうイスラエルの民。見知らぬ土地を進む彼らを「昼は雲の柱、夜は火の柱」が導いたと記される。

ではその「雲の柱・火の柱」とはどんなものだったのだろうか?いつでもどこからでも確認できる巨大な柱・強い光だったのか?ひょっとしたらそれは、よく目を開き見ようとしなければ見えないものだったのではないか。なぜならその後のイスラエルの民の姿は、何度も神の約束を疑い、罪や過ちを犯す歩みでもあったからだ。

神の守り・導きはいつも確かに「ある」。しかし民にはそれがいつも見えているわけではない…そんな中を浮き沈みしながら歩んで行く…それが嘘偽りのない人々の姿だったのではないだろうか。

「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」。新約・ヨハネ福音書のイエスの言葉だ。イエスこそまことの光、その光に従うことで私たちもまた光を持つ…そんな信仰を呼び覚ましてくれる力強い言葉だ。

ではそのイエスの光とは、どんな光だったのだろうか?この言葉を聞いたファリサイ派の人々は「あなたは自分で自分の証言をしてるだけではないか」と言って信じようとしなかった。イエスと彼らとのやりとりは、結局堂々巡りの水掛け論、つまり彼らにはイエスの光は見えなかったということだ。

このことはヨハネ福音書の冒頭において既に示唆されている。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」(ヨハネ1:9-10/口語訳) 光はそこにあり、心開きさえすれば道が備えられているのに、誰もが見る・進むわけではない。心の目を開いて見ようとしない限り見えてこない光、そんな光に従う歩みこそ、まことの命に至る歩みあることが示される。

「光に従う歩み」― それは信仰の大きなテーマだ。その道を進むにあたって、もうひとつ大切なことを思う。それはイエスの光と、私たち自身の間の距離感だ。光から遠く離れ過ぎると、間の道が見えなくなる。かといって近過ぎると自分しか見えなくなる。ましてや自分自身が光になったような勘違いをしてはならない。少し離れて、足元を見つめ照らされて、そしてイエスに従う…その心の距離感が大切なのだ。

しばしば私たちはその光を見失う。だからこそ、週に一度の礼拝が大切なのだと思う。仲間と一緒に共に祈り、賛美し、いっしょに道を照らされながら光に従ってゆく者でありたい。