『 罪を悔いる人の元に 』 

2025年12月8日(日)
イザヤ59:12-20、マタイ13:53-58

今日12月8日は、二つの残念な出来事の記念日である。一つは太平洋戦争・日米開戦の日。その後泥沼化し、内外に多くの犠牲を悲劇をもたらした戦争が始まった日だ。

もう一つは元ビートルズのメンバー、ジョン・レノンが暗殺された日。反戦・平和の活動をしていたジョンを、当時ベトナム戦争を続けていた米政府は危険視していた。暗殺犯が狙っていることも把握しながら放置していたという。

戦争と平和について改めて考えさせられる、二つの記念日。それは戦争と殺戮を繰り返してしまう人類の罪を改めて反省する日でもあると思う。

アドヴェント第2週。アドヴェントはイースター前のレントと同じく、「罪の悔い改め」の季節ともされている。「クリスマスの喜びを迎える前に、そんな辛気臭い…」と思うのでなく、そのような時が定められていることの意味を改めて心に留めたい。

聖書・旧約はイザヤ書59章。バビロン捕囚から解放された帰還民に向けて語られた“第3イザヤ”の言葉である。戦後スグの荒廃から立ち上がろうとしている日本人に向けて語られているような状況である。

苦難から解き放たれた解放感に酔いしれ、「もう苦難は終わった!楽しくやろうぜ!」と浮き立つ人々。しかしイザヤはまず「罪の悔い改め」を語る。苦難に至った自分たちの罪をまず顧み、悔い改めることが必要だと説くのである。

その預言者の言葉をしっかりと受けとめたのは、やはり罪を悔い改める人々であった。「主は贖う者として来られる。罪を悔い改める者の元に来る、と主は言われる」(イザヤ59:20)、この言葉を改めて心に留めたい。

新約では、その預言者の言葉を誠実に受けとめ切れなかった人の姿が描かれる。イエスが故郷のガリラヤに帰り、会堂で教えたり病人を癒したりしておられた時の、故郷の人々の反応である。

ガリラヤは当時のユダヤ社会では「辺境の地」と差別の目で見られていた。そんな地域で育ったことが、あのイエスの「強い者ではなく弱い者を尊ぶ」人格と生き様を生み出したのだと思う。

イエスにとってガリラヤは懐かしくも愛おしい「忘れ難きふるさと」であった。それはガリラヤの人にとっても同じ。イエスのことを親しみも込めて「大工の息子」と呼んだ。その親しさが、ある意味「預言者の言葉」を軽んじる反応を生み出してしまったのだ。

イエスの語る深い真理を聞いて、「おうおう、大工の息子が、ご立派なことを言うようにになったもんだのう」と応じた人々。そこに悪意があるわけではない。しかし関係の近さが、逆に素直になれない心を生み出してしまうのだ。私たちも、家族間で、夫婦間で、近しい人との間で同じようなことをしてしまってはいないだろうか。

関係の近さ・親しさに甘えるのではなく、相手の語る言葉の中に真実を聞き取り、受けとめる心を持つこと。それが「罪を悔いる者」として生きるために欠かせない心構えなのである。