2025年1月12日(日)
サムエル上16:6-13、マタイ3:13-17
キリスト教には「頭に手を置いて祈る」という習慣がある。一番よく知られるのは牧師(教師)按手式。ひとりの教職(司祭、牧師、神父)が任職される時の儀式だ。
日本基督教団ではこの儀式に対し、「権威の授与につながる」という批判の声がある。牧師になることが、何か権威を身に帯び「偉くなった」ように振舞うことは問題だ。しかし「権威の授与だ」という指摘には、「それはちょっと決めつけではないか」という意見を抱く。自分一人の決意でその働きを担うのではなく、先達たちからのエールを受け、誰かの支えを受けて送り出されてゆく. . .そのような側面がこの儀式には込められているように思うのだ。
今日は旧約も新約も「手を置いて祈る(任命する)こと」に関する箇所。旧約はサムエル記、ダビデの王への任命の場面である。初代の王・サウルが、王の座に着いた途端傍若無人に振舞い始めたのを見て、主なる神は次の王になる人物を選ぶようサムエルに命じた。
選任にあたって主が言われたのは「外見(容姿や背の高さ)で判断するな。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」ということだった。そうして選ばれたのは、エッサイの息子の中でも最も年少のダビデであった。ダビデは何か功績を果たしたから選ばれたのではない。自分をより頼むのではなく、神をより頼む心、そのような謙虚な姿こそが「ふさわしい」と選ばれたのである。
新約はイエスの受洗の場面。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことを、最も詳しく記すのがマタイである。
ヨハネは既に「私の後に来る方は、聖霊と火で洗礼を授けられる」と語っている。ヨハネとイエスとが既に面識があったことがうかがえる。そしてイエスの振る舞いや言葉に出会ったヨハネは、「この方こそ来るべき方=メシアに違いない」と信じ始めていたのだろう。
そのイエスが自分の前に現れて、そして「あなたから洗礼を受けたい」と言われたのだ。「自分こそあなたから教えを受ける立場なのに、なぜ?」とうろたえるヨハネの姿が描かれる。そんなヨハネに、「今はそうさせて欲しい」とイエスは言われるのである。
確かにこの後、ヨハネとイエスの立場は入れ替わる。イエスは神から遣わされたメシアとして、ユダヤ人のみならず全ての民を救う教えや振る舞いを示される。しかしそれは「これから」のこと。いまこの時点では、厳しい宣教の業を始めるにあたって洗礼を受け、誰かの支えを受けて一歩を踏み出す決意の時がイエスにとっても必要だった。自分の決意や正しさだけによってそれを進めるのではなく、頭に手を置いて祈ってくれる仲間の存在が必要だったのだ。
私たちにも、時に人生の困難や試練に出会うことがある。自分一人でそれに向き合わねばならない. . .そう考えると辛くなる。しかし私たちはひとりではない。共に礼拝に集い、賛美をし、祈りを合わせる友がいる。頭に手を置いて祈られた経験(洗礼)がある。そんな「誰かの支えを受けて歩む」という経験を想い起す時、勇気が与えられ、新たな道が開かれるのだ。