「主に選ばれた者の特権 」

2025年4月6日(日)
創世記25:29-34,マタイ20:20-28

「人は生まれながらにして平等」 ― 日本国憲法、合衆国憲法、世界人権宣言などに記された、人類の理想である。しかし実際には、残念ながら差別や格差があり、特権的な立場を得ている人がいるのが現実である。

旧約は「長子の特権」をめぐる、エサウとヤコブの争いの物語。ある日狩りに出かけた野人・エサウ。インドア派のヤコブは家で豆の煮込みを作っていた。腹を空かせたエサウはヤコブに煮込みをせがみ、ヤコブは「長子の特権をくれたら差し上げましょう」と応じた。エサウは目先の利益のために長子の特権を手放し、ヤコブに譲ってしまう。

続けてヤコブは父・イサクをも騙して祝福を受け、「長子の特権・完全版」を手に入れる。するとエサウはヤコブに対し恨みを抱き、ついには殺害を計画する。察したヤコブは逃亡の旅に出る. . .そんな物語だ。

この物語はどんなメッセージを与えてくれるのだろうか。「長子の特権は大切なものだ。それは何としてでも、それこそ人を騙してでも手に入れるべきだ.. . .そういうことだろうか?

新約は、イエスの弟子集団の中で、ある特権を求めた二人の弟子・ヤコブとヨハネに関するエピソード。マタイでは二人が直接イエスに求めたのではなく、二人の母が願い出た形になっている。「あなたが玉座に就かれる時、あなたの左右に息子たちを座らせて下さい」と。

もとより弟子たちは何か優れた能力や力を持っていたから選ばれたのではない。むしろ多くは貧しい階層の無教養の庶民である。ただ、イエスから招かれて、その後に従う決意を下した。その意味では「熱い人たち」でもある。

今日の箇所から分かることは、彼らは「栄光のメシア」を求めていたということだ。「ひとりを右に、ひとりを左に. . .」という願いから、彼らの権力志向が分かる。「他の弟子たちは二人のことで腹を立てた」と記されるが、それは「出し抜きやがって!」という怒りであろう。同じ穴のムジナである。そしてそれは、イエスの思いと大きくズレて行ってしまうのである。

そんな「栄光の特権」を求める彼らに、イエスは別な形での「選ばれた者の特権」を語られた。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、僕になりなさい」。イエスが示された特権は、ヤコブ・ヨハネ、他の弟子たちが求めた「栄光の特権」ではない。ヤコブが兄エサウからだまし取った「長子の特権」でもない。それは「人に仕える生き方をする」「みんなの主人として君臨するのではなく、みんなの僕となる」そんな特権である。

イエスがもたらされた「救い」とは、圧倒的な武力で敵を打ち倒して勝ち取るものではなく、明晰な頭脳と知識で優位を誇るものでもない。いと小さき人々の傍に寄り添い、一人ひとりの存在を底辺において肯定する. . .そんな「救い」である。「主に選ばれた者の特権」とは、そのような「仕える生き方」の中にこそ、本当の生きる喜びを感じることができる. . .そんな特権である。