「朝の光の中で 」

2025年4月20日(日) イースター礼拝
創世記1:1-5, マタイ28:1-10

先週からのつづき。十字架上で「わが神、なぜ見捨てるのですか?」と絶望の叫びを上げて息を引き取られたイエス。その最後の訴えに、十字架の上で神が応えて下さることはなかった。本当にイエスは見捨てられてしまったのだろうか。

時は金曜日の夕方近く. . .イエスを慕う人々は、急いでイエスの遺体を墓に納めようとした。日が暮れれば土曜日、安息日が始まる。そうなると「仕事をしてはならない」と定められた安息日には、イエスの遺体を葬る「仕事」ができなくなるからだ。安息日はユダヤ人にとって聖なる礼拝の日。しかしこの人たちにとっては悲しみに暮れる暗黒のような一日だったことだろう。

女たちには後悔があった。急いでいたがために、イエスの遺体に香油を塗ることができなかったことだ。安息日が明けたら一刻も早く墓を訪れて香油を塗らせてもらおう. . .そんな思いを抱きながら、まんじりともせず日曜日の朝を待ったことだろう。

そして日曜日。彼女たちは墓に向かう。「あの大きな墓の石の蓋をどうやって開けようか」そんな心配を語り合いながら. . .。ところが墓に着いてみると入口の蓋は既にどけられており、そこにイエスの身体はなく、代わりに白い衣を着た天使がいて、こう言った。「あの方はよみがえってここにはおられない。いますぐガリラヤに行きなさい。そこでお会いできるであろう」と。

これが聖書の伝えるイースター、イエスのよみがえりの出来事である。「わが神、なぜ見捨てるのですか?」と叫んで息を引き取ったイエスを、神さまは見捨てられなかったのである。

4つの福音書が四者四様にイエスの復活を描いている。その中で、最も輝かしい朝の雰囲気を表しているのがマタイ福音書だと思う。天使の言葉を聞いて、弟子たちにそのことを知らせに行こうとした女性たち。すると行く手にイエスが現れて声をかけられた。「おはよう」(新共同訳)。原語のギリシャ語では「カイレーテ(喜べ)」という言葉が使われているが、以前の口語訳聖書では「平安あれ」と訳されていた。

新共同訳聖書に変わって、一番新鮮に感じたのが、私の場合この「おはよう」であった。日常のさりげない朝の挨拶. . .それはイエスが特別な形ではなく、ささやかな日常の中によみがえられたのだということを示してるように受けとめた。そして思った。「イースターは朝の光の中の出来事なんだ」と。

教会にとってもう一つの大切な季節・クリスマスの物語は、夜のイメージに彩られている。それは暗闇の中に灯された、暖かいろうそくの光のような喜びである。一方イースターは、朝の光の喜び。夜の闇が覆う世界に対して、「いつまでも終わらぬ闇はない!」と差し込む、圧倒的な光と共に訪れる喜びのように思う。

イエスがよみがえられたのは日曜日、それは天地創造の初めに、神が「光あれ!」と言われた日だ。イエスを信じる人々は、安息日(土曜日)に変わって日曜日に礼拝をささげるようになった。それは朝の光の中で神の救いが示された日だからなのだ。