2015年7月5日(日)
エレミヤ38:5-13、使徒言行録20:7-12
先日、テニスの錦織圭選手の特集番組の中で、現在世界ランキング1位のジョコビッチ選手が語っていた言葉が印象に残った。錦織が王者になれるかどうかと質問されて、現世界王者はこう答えた。「ニシコリが王者になれるかどうかは、敗北をどう受けとめるかにあると思う。私も飽きるほどの失敗や敗北を積み重ねてきた。簡単なことではないが、敗北を目標へと向かう長い道のりの一部と思えるかどうかが、王者になれるかどうかの差だと思う。そしてそれは、すべて自分の心の持ち方次第なのだ。」
聞いていて、これはテニスプレーヤーにとってだけではなく、私たちの人生にも妥当する言葉だと思った。なぜなら私たちの人生もまた、失敗や敗北の連続だからである。その自分の人生で「王者」になるためには、失敗や挫折や逡巡をも大きな目標の一部だと読み替える力が大切になるのではないか。
聖書にも多くの人々の、失敗と敗北の物語が記される。エレミヤは、バビロニアの猛威に揺さぶられていた南王国ユダにおいて、まさに国の滅亡を預言した。それがエレミヤが神から授かった言葉だったが、人々にとってはそれは聞きたくない言葉だった。そのためエレミヤは弾圧を受け、死の淵へと追いやられてしまう。ユダの役人たちによって捕えられ、縄でしばられて泥水の中に吊るされるのである。
しかしこの後エレミヤは宦官エベド・メルクによって助け出され、絶体絶命のピンチを免れる。やがて訪れるバビロン捕囚の際には、王・ゼデキヤは目をくり抜かれて殺されるが、エレミヤは解放され命を保つ。神は忠実に従う者を決して死の淵に捨て置かれはしない。
新約の箇所は、パウロの長々とした説教中に居眠りをした若者が、3階の窓から落ちて息絶えてしまった出来事である。説教中に人がひとり亡くなる。パニックを引き起こす出来事であり、居眠りをさせたパウロにとっては大失態である。
しかしパウロはうろたえず、下に降りて若者を介抱し、「騒ぐな、まだ息がある」と言った。もしパウロが周囲の見立てに同調してあきらめてしまっていたら、若者の命は終わっていただろう。しかし冷静に振る舞うパウロの働きによって、若者は死の淵よりよみがえるのである。
信仰を抱いて歩んでも、敗北することがある…。聖書にはそのような物語がいくつも記される。しかし神は負けることが分かっていてもその道を歩み通したその人を、決して絶望の死の淵に捨て置かれることはない。イエス・キリストの十字架と復活こそ、そのことを証しする最大の物語である。
そして私たちも知るのである。私たちが体験する様々な挫折、つまづき、失敗の数々。その私たちにとっては残念な現実もまた、目標へと向かう大きな道のりの一部だということを。
私たちの信じる神は、「敗北や失敗を一つも与えず万全に守って下さるお方」ではないかも知れない。しかし私たちを敗北、挫折、そして死の中に捨て置かれる方では、決してない。必ずや死の淵からよみがえる道を備えて下さる方である…そのことを信じて、日々の現実に向き合ってゆこう。