2015年7月19日(日)
ヨシュア2:1-7、フィリピ4:1-3
日本の教会の構成員は、女性の方が多い。そんな日本の教会には女性のはたらきが欠かせない。「男と女の間に性差などない。あとから作られるものだ」と主張する意見もあるが、やはり異なる性のライフスタイルの中で培われた働きの質は、少しずつ違うものだと思う。
空間認知力が高い「男性脳」と、言語伝達力の秀でた「女性脳」、そんな違いを比較する研究もあると聞く。太古の狩猟生活時代のそれぞれの暮らしぶりが、脳の異なる部位を発達させたというのだ。難しい理屈は分からないが、確かに私たちは経験的にそれを知っている(「話を聞かない男」と「地図の読めない女」)。今日はそんな「女たちのはたらき」について考えてみたい。
ヨシュア記のテキストは、エリコを偵察にきたヨシュアたち一行が、門衛によって発見されピンチに陥った時に、彼らをかくまって助けたラハブという女性の姿を描いている。彼女は異邦人であり遊女であったが、イスラエルびとにとっては重要人物であった。マタイによる福音書冒頭のイエスの系図にもその名前がある。
ラハブは出エジプトの大いなる神の救いの出来事を聞いて「この神こそまことの神だ」と信じ、受け入れた。カナンの男たちも同じ話を聞いたが、彼らは「イスラエルといかに戦うか」ということばかりを考えた。理屈や手順によってではなく、出来事そのものと出会い、感じ、受け入れる… それがラハブという女性の心のありようだった。日本のクリスチャンに女性が多いことと関係があるのだろうか。
一方新約の箇所は、フィリピの教会の人々に向けて、パウロがしたためた手紙の言葉である。エボディアとシンティケという二人の女性は、それぞれ有能な人々で、パウロの宣教を大いに支えた。しかし何かの事情で二人の関係はうまくいっておらず、対立してしまっていたようだ。パウロは二人に「主において同じ思いを抱きなさい」と勧める。
一所懸命働く人同士が、衝突し、反目し、対立してしまう…。残念なことであるが、そういうことは私たちの周りでもしばしば起こり得る。自己を絶対化し相手の意見を否定するところからは、本当の豊かな歩みは生まれない。
しかしそんな対立が生まれるのは、一所懸命に取り組むからこそとも言えるのではないか。波風がまったく立たず、対立がひとつも起こらないのが理想の姿かというと、必ずしもそうは言えない。なぜならそれは「熱くもなく、冷たくもなく」誰も前向きに取り組もうとしない姿のあらわれだと言えるかも知れないからだ。
一所懸命に仕えたが故にぶつかってしまった二人の女性のはたらき。しかしそのひたむきさは、フィリピの教会には欠かせないものだったのだ。