「苦しみの中で希望を抱く」

2025年9月7日(日)
ハバクク3:17-19, ローマ8:18-25

キリスト教信仰の最も強くて尊いところはどんなことだろう?キリスト教に限らず、「人間の精神において...」と言い換えてもいいかも知れない。いろいろ考えられるが、その一つが「絶望的な苦難の中でもなお希望を抱くことのできる力」ではないかと思う。

V.フランクルの「夜と霧」の中に、ナチスの強制収容所での印象に残るエピソードが紹介されている。一日の労働を終え帰る道で、見事な夕陽を見て「世界は何と美しいのだろう」と感激した体験だ。収容所の現実は世界最悪の状況である。そんな中でも人間は感動する心を持つことができる。フランクルは「この経験は、この世のどんな力もそれを奪うことができない」と記している。

預言者ハバククはバビロン捕囚に向かう状況の中で「いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけない」と嘆く。捕囚の苦しみを、農作物の不作のメタファーで語るのだ。けれども続く言葉で「しかし私は主によって喜び、救いの神ゆえに踊る」と語るのだ。それは『視点の転換』である。「自分にとっての世界」という視点の中では苦しい現実であるが、「神の造られた世界の中の自分」と視点を置き換えることで、救いの道が示されるのだ。

パウロは「現在の苦しみは、やがて現わされる栄光に比べると、取るに足りない(直訳=重さが少ない)」(ローマ8:18)と記す。「栄光」とはちっぽけな被造物である自分が神の子とされる約束だ。信じれば苦難がなくなるというわけではなく、苦難がいっぺんに快楽に変わるのでもない。やがて得る栄光に比べれば、重さが少なく感じるということだ。

ハバククもパウロも、「自分」ではなく「神」を基軸に置くことで希望を取り戻す。「見えない約束・神の救いをどうやって確認できるのか!?」という反応があるかも知れない。それに対しては「見えないことだからこそ“信じる”のではないか」と応じたい。

「私たちは見えないものを望み、忍耐して待ち望む」とパウロは語る(8:25)。他の手紙では「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」と述べる(Ⅱコリント4:18)

パウロ自身の生涯も、苦難の連続であった。元ファリサイ派の律法学者として、自分のステイタスを誇ることを第一にしていた彼が、イエス・キリストに出会い、隣人を愛しその救いのために命を投げ出す生き方に衝撃を受け、回心して伝道者となった。それ以降はユダヤ人やローマ帝国からの迫害、加えて持病を抱えながら苦難の連続の旅を続けた。

しかしそれにも関わらず、彼の人生には喜びが溢れていた。自分ひとりの成功を喜ぶのではなく、隣人と共に生きる豊かさを知ったからだ。パウロもまた神によって、そしてキリストによって『視点の転換』を与えられたのだ。

生きる限り苦しみや悩みはつきまとう。しかしそんな中でも「私は神の造られたすばらしい世界の中で生かされている」と信じる時、そこに希望が生まれる。

TVドラマ『あんぱん』の中で、たかしの父親が語っていた言葉でしめくくろう。

「泣いても笑うても、陽はまた昇る。たかし、絶望の隣はにゃあ...希望ぜよ!」