2025年10月12日(日)
出エジプト20:1-17, マタイ19:13-30
「あなたにとって生きて甲斐ある人生とはどんなものですか?」そんな質問を受けたとしたら、何と答えるだろうか。その答えは人それぞれであっていいと思うが、予想されるのは、誰しもが「自分にとっての生きがい」を念頭に置くだろう. . .ということだ。
聖書の示す信仰の世界には、それとは異なる生きがいの基準がある。それは「神が私の生き方をどう見ておられるか」ということを意識する姿だ。神のみこころにかなった生き方にこそ、生きて甲斐ある人生がある、という考え方である。
旧約の民・イスラエルにとって、それは律法を守って正しく生きるということだった。その中心が「モーセの十戒」である。10の戒めのうち8個までもが「〇〇してはならない」という禁止命令だが、これは本来「してはならない(should not)」ではなく、「することができない(could not)」と受けとめられるべき言葉だ。即ち、神さまの眼差しを意識する時に、「これはすることができない、してはならない」と自らを律する意味での戒めなのだ。
新約はイエスの元を訪れて、「永遠のいのちを得るには何をしたらいいか?」と尋ねる若者のエピソード。質問を受けたイエスが最初に返されたのは、「十戒を守って常識的に生きなさい」というそっけないものだった。「そんなことは昔からやっていました。あと何が足りないでしょうか」と返す若者に、イエスは「ではあなたの持ち物を全部売り払って貧しい人に施し、そして私に従いなさい」と言われた。
若者は顔を曇らせてその場を立ち去った。「多くの財産を持っていたから」と理由が記される。イエスは弟子たちに向かって「財産を持つ者が天の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しい」と言われた. . .。
この一連のエピソードは私たちにどんなメッセージを語るのだろうか。「十戒を常識的に守ってるだけではダメだ、それにプラスして全財産を手放さなければ神の祝福は得られない. . .ということだろうか。
そうではなく、イエスは若者の問いの方向性(ベクトル)をひっくり返したのではないだろうか。彼は生きがい(幸せ)を「手に入れよう(get)」と考えていた。イエスの答えは、「get ではなく give, 与えること自体に喜びを感じる者となりなさい」ということだと思うのだ。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)。
だが、この物語の展開を読んだ私たちの心は、どこか落ち着かない。自分の全財産をささげることなど、とてもできないからだ。私たちもまた、悲しい顔をしてイエスの元から立ち去らなければならないのだろうか。
しかし、私はこの物語には続きがあると思っている。イエスは「財産を持つ者が天の国に入ることは、らくだが針の穴を通るよりも難しい」と言われたが、「不可能だ」とは言われなかった。一旦は立ち去ったこの若者が、けれどもイエスの言葉が忘れられず、その後の人生の中で「ささげる喜び」を知ることができたのだとしたら、この出会いには意味があったと思うのだ。
私たちも「全財産」は無理だとしても、時には自分の持ってるもの(お金、労力、時間、祈り)を、誰かの必要のためにささげることを通して、そこに「生きがい」を知る者になりたいと思う。もし私たちがそんな喜びを知ることができたなら、そのとき天の国には「針の穴を通ったらくだ」が一頭送り届けられることだろう。
最後に、「詠み人知らず」の詩をひとつ. . .
「友を得よう」と出ていった。
なかなか友は得られなかった。
「人の友となろう」と出ていった。
いたるところに友はいた。