2025年11月2日(日) 召天者記念礼拝
フィリピ3:18-4:1
中指骨折の手術を受けるため、全身麻酔をすることになった。その際、ヒゲを剃るように言われた。麻酔をするにあたっての決まりということなので、已む無く剃った。30年ぶりのことだった。誰にも気付かれないほどのささやかなヒゲではあったが、私の心には喪失感が残った。阪神大震災以来、「この出来事を忘れないように」との思いで伸ばしていたヒゲだったからだ。
人間は時の記憶と共に生きる存在である。そしてその時の記憶が刻まれたものを失う時、ある種の喪失感を抱くのである。
今日は召天者記念礼拝。家族や近しい人の死という出来事は、人の心に喪失感をもたらすものだと思う。それは太古の昔から人類が抱き続けてきた心象だ。
家族を葬る、その葬り方は千差万別だ。自立した家族や反目する家族は淡々と、長寿を全うし、あるいは長い闘病の末見送った家族はある種の充実感すら抱きつつ送られる。一方親しく睦び合った家族や、突然の事故・病気で亡くなった家族は慟哭の涙と共に送られる。
家族を天に送る時に抱く感情は、人によってそれぞれだ。しかしどんな家族であれ、そこに何らかの喪失感は伴っていることだろう。家族とはそういうものなのではないだろうか。
けれどもその現実を、信仰のまなざしで見つける時、まったく違った受けとめ方ができることを聖書は私たちに示してくれる。「しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」(フィリピ3:20)。今日の聖書箇所に記された、パウロの言葉である。
私たちが、自分をすべての中心に置いて物事を見、考える時、家族や近しい人の死は悲しみ・喪失感を伴う出来事となる。しかし神が世界を造り支配しておられる、その視点から見つめる時、そこにはまったく違った生と死の受けとめ方があることを示されるのである。
このパウロの言葉が示しているのは、親しい人が一人この世からいなくなる、ということは、天に一人が増えるということでもある. . .そんな見方・受けとめ方である。そのように神に委ねる思いへと導かれる時、私たちの抱く喪失感は、悲しみ・淋しさの香りを残しつつ、むしろ一種の充実へと導かれるのではないか。
家には一人減じたり 楽しき団欒は破れたり
愛する顔 いつもの席に見えぬぞかなしき
さはれ 天に一人を増しぬ
清められ 救われ
まっとうせられし者の一人を
(Sarah Geraldina Stock “One less at home”)
これはサラ・ストックという英国人女性の祈りの言葉を、植村正久が訳したものだ(本文はまだ続くが一部紹介)。植村自身、次女が6歳で亡くなったその時の悲しみに対し、数年後に出会ったこの祈りの言葉によって慰めを受けたという。
愛する家族を亡くすことは、耐えがたい悲しみ・心の痛みを伴う出来事である。しかし「天には一人を増しぬ」 ― そのような信仰による視点の転換が与えられる時、そこに慰めがあり、救いがある。
