『 真実を聞き続ける 』 

2025年11月30日(日) アドヴェント第一主日
イザヤ51:4-8, マルコ13:21-24

バビロン捕囚の時代に活動した二代目預言者イザヤは、捕囚の苦しみから解放してくれるメシア=救い主の到来を預言した。彼は当初、バビロニアを倒し捕囚の民を解放したペルシャの王・キュロスこそメシア!と期待し、持ち上げた。

しかしそのキュロスも他の権力者と大差ないことを悟り、晩年にとても不思議なメシア預言を残す。それが53章「苦難の僕」のうたである。そこに描かれるのは力を頼らず、むしろ自らが傷つくことによって人々を癒す姿であった。

51章でイザヤは「人に嘲られることを恐れるな。罵られてもおののくな」と語る。彼は自分の語る預言をイスラエルの民が心よく思わず、バッシングをもって応じることを予知していたのだろう。それでも厳しい状況ではあっても、真実を聞き続けよ!と語るのである。

マルコ13章はイエスが終末の出来事について教えられた、いわゆる「小黙示録」と呼ばれる箇所である。終末にはいろんな出来事が起こる(天変地異、大混乱、迫害や逮捕拘束)。恐ろしい「しるし」が続く中で「にせメシアに気をつけよ」と警告の言葉が語られる。

私たちの生きる現代も「にせメシア」が跋扈する時代と言えるかも知れない。フェイクニュースがあっという間に共有され、人々の価値観をミスリードする。その情報が正しいのか間違ってるのか. . .そんなことはもう「どうでもよい」。そこで語られる言説を聞いて「スカッ」と一瞬の快楽を受ければよしとされる時代。地道にまじめに真実を求める人を見ると、「なんかめんどくさいことやってるなぁ. . .」と揶揄する言葉がウケる時代。「だからあなたがたは気をつけていなさい」というイエスの警告は、現代に生きる私たちにも十分妥当する。

どうすれば「にせメシア」に惑わされず真実を聞き続けることができるのか。私たちにはそれを見分ける道しるべが与えられている。それは言うまでもなくイエス・キリスト、その人である。聖書に記されたイエスの姿・その生き様をモデルにして世界を見つめる時、おのずとそこに警戒すべきフェイクニュースと聞くべきリアルニュースとの間の境界線が引かれていくことだろう。

ひとつ間違えないようにしたい。マルコ13章には「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る」という言葉がある。これは「栄光のメシア」である。しかしイエスの実際の生き様はそうではない。「力と栄光を帯びた大天使」ではなく、隣人のために十字架を背負うキリスト(マルコ8:31)である。それはまさに二代目イザヤが晩年にやっとたどり着いた「苦難の僕」の姿そのものである。

きらびやかで楽しげで、多くのモノに溢れたクリスマスがあちこちに現れる季節。人間の飽くなき欲望は真実を見ることを忘れさせようとする。しかしそれはクリスマスのまことの喜びではない。飼い葉おけの貧しさの中に生まれ、弱く小さき者と共に歩み、十字架の死至る道を歩み続けられたイエスの生涯にこそ、真実のよろこびがあるのだ。