2026年1月4日(日)
ゼカリヤ8:1-8、ルカ2:41-52
「エルサレムには老爺・老婆が座し、わらべとおとめが溢れ、広場は笑いさざめく」。2026年最初に朗読された聖書の言葉である。昨年のクリスマス礼拝前後、前橋教会はまさにこの言葉の通りの光景に包まれた。教会員の召天、それによる会員の減少…教会の将来に不安を感じさせられる出来事もあるが、そんな現状を嘆くのではなく、そんな中にも笑い声を導き出して下さる神への信頼を抱き、新たな年を始めたい。
先日、パレスチナの過酷な現実を描いたドキュメンタリー映画『手に魂を込め歩いてみれば』を見た。爆撃される現地で活動を続ける女性フォトジャーナリストが、「この状況にもアラー(神)が与えられる意味がある」と語るシーンがあった。これを見て、宗教(イスラム教)は違うが信仰の強さを感じた。それは「視点の転換」を持つことができる強さである。
最近、この「視点の転換」こそが信仰の重要ポイントではないかとの思いを強めている。人生の危機・ピンチの時に「自分中心」の視点しか持てないでいると、その危機は心と体に重くのしかかる。しかしそこで視点を転換して、「世界の中の自分」と世界中心・神中心で受けとめる時に、行き詰まった心に風穴が開けられる…そんな風にして、過酷な現実の中をそれでも押しつぶされずに生きる「強さ」が与えられるのである。
以前、知人から聞いた話。大好きな母親が亡くなって悲しくてしかたなかった。ご飯もノドを通らないくらい憔悴した。ところがふと窓の外を見ると、自分のこんな悲しみとはまるで何も関係ないように、世間は普通に動いていた。それを見た時に「あぁ、こうしちゃいられない。しっかりしなくちゃ!」と思った…そんな体験談である。「私はこんなに悲しくても、それでも世界は巡り、移り変わっている」…ここにも「視点の転換」による救いがある。
新約はイエスの少年時代のエピソード。ユダヤ教最大のお祭り・過越祭に一家で参加した帰り道、はぐれてしまったイエスを捜して母・父が右往左往する姿が描かれる。3日目になって(!)やっとイエスを見つけることができた。イエスは神殿で学者たちと語り合っていたという。夢中になった少年は後先忘れて行動することがよくある。イエスもそんな少年の一人だったのかも知れない。
イエスを見つけたマリアは「なぜこんなことをしてくれたのです?みんなが心配して捜しているのに…」そう言ってイエスを叱責する。するとイエスは答えられた。「どうして捜すんです?私が父の家にいることを知らなかったのですか?」 な・なんと生意気な!…そう思うだろうか。しかしこの言葉が示すのは、イエスの神に対する大きな信頼である。
イエスを捜す両親は「自分たちの視点」から抜け出られない。だからイエスがいなくなったことによって慌てふためく。しかしイエスは「どこにいても、私たちは神の大きな守りの中にいる」と言われる。この答えこそ「視点の転換」である。
成長したイエスは「空の鳥、野の花を見よ。明日のことを思いわずらうな」と教えられた。私たちは毎日の暮らしのことでつい「思いわずらって」しまう。なぜだろうか?それは「自分にとっての明日、自分にとっての世界」、すべてをそのように考えているからではないだろうか。けれども、それは誰もが自然とそう考えてしまうことだ。そのような「自己中心性」から離れるのは難しい。
それを変えてくれるのが信仰だ。「自分にとっての世界/神さま」ではなく、「世界の中の自分、神さまあっての自分」…そんな風に認識そのものをひっくり返してくれる。思い悩んだり、あくせく働いたりしない空の鳥や野の花を、それでも神さまは養って下さる…そんな神への(世界への)信頼を抱き、「自分中心」から「世界中心・神さま中心」へと変えられていく時、思い悩みから解放されるのだ。
