2026年2月8日(日)
列王記下4:32-37, マルコ2:1-12
信仰とは、時にとんでもない行動へと人を駆り立てるものでもある。旧約は預言者エリシャの物語。エリシャの活動を支援した裕福な女性に、エリシャは何か感謝の思いを込めて「来年の今ごろあなたは男の子を抱いているであろう」と予言した。夫との間に長く子が与えられていなかったことを聞いたからだ。
預言通り子どもは生まれ女性はそれを喜んだが、その子がある日突然死んでしまう。彼女は「私が子どもを求めたでしょうか。こんな目に遭うくらいなら子どもなど生まれない方がよかった。」と激しく抗議した。エリシャはその子の上に覆いかぶさった。するとその子は息を吹き返した。「死人のよみがえり」の奇跡である。
母はエリシャに猛烈に抗議した。しかしそれは子どもを愛するが故であった。それを受けてエリシャは奇跡を起こした。それは母の子を思う心、そしてその思いを受けとめ寄り添うエリシャの心が起こした奇跡だと言えよう。「死人の復活」を願うという常識外れの願いを叶えたのは、不思議な超能力ではなく、愛の力だったのである。
新約はイエスによる癒しの奇跡の物語。これまでイエスが行なってきた様々な癒しが評判となり、訪問先には次々に人が押し寄せた。そこに一人の中風の男が連れられてきた。脳卒中などで半身が動かなくなった人である。
身体の自由が利かない…それだけでも辛いのに、「あの病気になったのは彼自身の罪の故だ」という宗教的な価値観が精神的にも苦しみを与えていた。しかし彼にはよい友だちがいた。「よし、それならオレたちがイエスさまのところに連れて行ってやろう」と床の四隅を担いで連れて来てくれたのだ。
ところが家についてみると大勢の人で中にはとても入れない。そこで彼らは思いもよらない行動に打って出る。何と家の屋根に上り、屋根を剥がし、空いた穴から仲間の病人を釣り降ろしたのである。
それは「非常識な」行動であった。しかしその非常識な振る舞いの中に、イエスは「彼らの信仰を見た」と記される。友人のことを思うが故に無茶な行動を取る彼らの中に、その友人への深い愛を感じ取られた。それがイエスの心の琴線に触れて、「あなたの罪は赦された」と言われた。「病気は罪への報いである」という価値観を、イエスは覆されたのだ。
人間社会は長い時間をかけてルールや秩序、常識といったものを築いてきた。それらを守って生きることで、人間関係のトラブルも未然に防ぐことができる。だからそれらを守ることは大切な振る舞いだ。しかし時にはそのような秩序や常識を超えて働く信仰というものがあるのだ、ということを、今日のエピソードは示してくれる。
一見非常識に見える行為であっても、その出発点に隣人への愛があるなら、イエスはそれを受けとめ祝福される。逆に言えば、どんなに常識的で立派な振る舞いがあったとしても、「そこに愛がなければ私は無に等しい」(Ⅰコリント13章)のである。
私たちの信仰が、秩序や常識といった枠の中に賢く納ろうとすることによって、本当のいのちを失うことになっていないだろうか?4人の友だちが示した「非常識な信仰」を、称賛と祝福の思いによって見つめられたイエスの思いを、大切に受けとめよう。
