2015年8月9日(日)10:30
ルカによる福音書12:35-48
地区の平和集会プログラムで、松代大本営跡を訪ねてきた。太平洋戦争末期、本土決戦に備えて大本営、省庁、皇居などを移転するために、広大なトンネルが掘られた。過酷な作業に携わった多くの労働者は、朝鮮人(強制連行も含む)たちであった。
この大本営跡を保存し公開するに至ったのは、当地の高校生たちの発案だったという。修学旅行で沖縄を訪れた高校生たちは、沖縄の地上戦を長引かせた原因が松代大本営完成までの時間稼ぎであったことを教えられ、驚愕した。そして地元に帰るとその戦争の負の遺産を保存し平和教育に用いることを提案したという。街の大人たちはトンネルの存在は知っていたが、特に気にとめることもなかった。若い感性が「見て見ぬふりはよくない」と目覚めることで、そこが平和を祈念する場所となった。
軍部の人々の不利を認めない心理、負けや滅びの予感を感じても見て見ぬふりをする振る舞いが、降伏の判断を遅らせ、その結果多くの犠牲を生むこととなった。改めて目を覚ましていることの大切さを思う。
捕囚期に活動した預言者エゼキエルは、活動の後半では荒廃したエルサレム神殿再建の希望を語り、イスラエル民族の復活を語った。しかし活動当初は、エルサレムの滅びを語った。為政者の治世の乱れや不信仰が滅びを招くことを、ためらうことなく指摘した。本当の希望というものは、安易な期待に流されず、目を覚まして冷静に現実を見極めることから生まれることを教えられる。
「いつも目を覚ましていなさい」とイエスは言われる。世の終わりと救いの完成をもたらす「人の子=救い主」は、思いがけない時にやってくる。「いま・ここ」での平穏な日常が、いつ終わりを迎えるかは誰にも分からない。「だから主人がいつ帰ってきても迎える準備ができている僕のように、備えていなさい」と。
例えばいま私たちが直面している現実で言えば、人々が平穏に暮らしている平和な日常がいつまでもあたり前のように続くとは限らない。いつ平和が破られるか分からない。だから目を覚まして備えていなさい… そんな風に受けとめることができるだろう。ただしこの場合「目覚めて備えている」とは、いつでも戦争ができるように戦いの準備をすることではない。むしろ、日常の陰に漂う戦争への兆候をいち早く察知して、そうならないよう努力することではないか。
戦争ばかりではない。私たちの平穏な日常が当たり前に続くのではないことを突き付けられたのが「3.11.」であった。特に原発事故によって家を追われた人々にとって、その思いは深く沈むだろう。そんな原発による被災者が、まだ復興の兆しすら迎えられない中、原発が再稼働されようとしている。都合の悪いことにはフタをして、見て見ぬふりをする人々の存在がそれを後押ししている。
私たちの生きる世界はよくなっているのか、悪くなっているのか。恐らく両方であろう。よくなっている部分についてはこれを感謝し祝福したい。しかし、悪くなっている部分については、決して見て見ぬふりをするのでなく、常に目を覚ましていたい。そして神の国の平和を求めつつ、行動する者でありたい。