「神との関係の回復」 

2026年2月22日(日) レント第一
エレミヤ31:27-34, マルコ1:12-15

今年もレントの季節がやってきた。レントの課題は2つ。①イエス・キリストの十字架への歩みを覚える。②自らの罪を見つめ悔い改める。「克己・修養の時」とも言われる。これは心地よいことではない。むしろ気の重くなる取り組みだ。

しかしそれを信仰の大切な課題としてキリスト教は受け継いできた。イエスは宣教の初め、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。罪とは何か。悔い改めとは何か。改めて考えたい。

キリスト教で言う「罪」とは、法律に違反する犯罪のことだけではない。法律に違反していなくても罪の姿はある。強欲、差別・偏見、いじめの心、優越感、嫉妬、うそをつく心、自己中心、自己保身…挙げればきりがないが、これらのものが「ひとつもない」と言い切れる人はいないだろう。

新約聖書が記されたギリシャ語において、罪を表す言葉は「ハマルティア」、その意味は「的外れ」である。神の姿に似せて作られたにも関わらず、その姿にふさわしくない的外れな生き方をしてしまう…それが人間の罪、というのが聖書の理解である。的外れな生き方をそのまま続けたのでは、人間は本当には幸せになれない…だから悔い改めるのだ。

この悔い改めは人に強いられるものではない。罰を恐れてしぶしぶするものでもない。自分で気付き受け入れ、決断していくことである。そのように悔い改めることによって神との関係が回復していくこと…それが赦しであり救いなのである。

エレミヤの時代はバビロン捕囚の苦しみの時代であった。エレミヤはそれをイスラエルの罪に対する神の裁きと捉えた。するといつしかある言葉が語られるようになった。「先祖が酸いぶどうを食べたから、子孫の歯が浮く」… 昔の人が悪かったから今の自分たちが苦しまねばならない、という意味である。エゼキエル書18章にも同様の言葉がある。

絶望して投げやりになる気持ちは分からなくもない。しかし、そのように他人のせいにして他責的な態度を取るところでは、人間の成熟に関する決定的な瑕疵(欠点)があると言わざるを得ない。それは自分自身を深く見つめる眼差しを失うことである。

エレミヤはこの言葉を拒否し、そして言う。「かつて抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらされた神が、今、彼らを建て、また植えようとしておられる」。裁きを下すのが神の目的ではない。神はイスラエルを救おうとされるのだ、と。

そのような厳しく、そして慈しみ深い神の下で、人がみな自分自身の罪を振り返り、悔い改め、神との関係を回復すること…そこにこそ人間の「生きて甲斐ある人生」があることを示すのだ。

私は牧師の子として育ったが、「人はみな罪人」というキリスト教の決めつけが苦手であった。もっと明るく、楽しいポジティブな面を育て合いたい、と。しかしレントの課題は私たちに、ポジティブ面だけでなくネガティブ面も見つめることを求めてくる。それが人間の成熟にとって、そしてひとりひとりが本当に豊かな人生を歩む上において、欠かせない大切な営みだからである。