『 御言葉を行なう人 』

2015年8月16日(日)
ヤコブの手紙1:19-27

聖書を元にした小噺。ある人が地上での生涯を終え、天国への階段を昇っていくと、天国の鍵を持ったペトロが門番をしていた。門の中には不思議な「しいたけ」のような壁があった。その人はペトロに尋ねた。「このしいたけは何ですか?」ペトロは答える。「それはみ言葉を聞くだけで実行の伴わなかった人の耳だ」。『耳なし法一』の逆で、耳だけ天国に入れたということだ。

この話にはさらに続きがある。「では、ところどころにあるこの『たらこ』は何ですか?」「それはみ言葉を語るだけで実行の伴わなかった牧師のくちびるだ。」(笑…)

「御言葉を行なう人になりなさい。聞くだけで終わる者になってはいけません。」とヤコブは語る。マタイ福音書にも同様のイエスの教えが記される(マタイ7:21-27)。しかし現実にはそれが実行困難であるからこそ、このような小噺が生まれるのだと思う。

「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」「人が友のために命を捨てる。これよりも大きな愛はない」。これらの教えが尊いものであることを私たちは知っている。しかしそれを実行できるか、ということになると、それはまた別の話だ。そのような私たちにとって、ヤコブの言葉はある意味とても厳しいものである。

ヤコブがこのような教えを強調するところには、ひとつの状況があったと思われる。それは「信仰義認」というキリスト教の中心的な教義を、ご都合主義に受けとめた人の存在である。

パウロが唱えた信仰義認。それは律法に従って立派な行ないをした人だけが救われるのではなく、「ただ神が与えて下さる救いを信じる」、それだけで救われるという教えだ。律法主義に呪縛され息苦しさを覚えていた人々にとって、この教えは爽やかな風であり、福音となった。

しかしヤコブが直面したのは、「大事なのは信仰だ。行ないはどうでもよい。むしろ不必要だ」という誤った受けとめ方をする人々が出現するという状況だった。そこでは信仰は生き方全体に関わる事柄ではなく、心の中の問題に矮小化されてしまう。

「信仰とは心の中だけの問題ではない。その人の生き方に現れなければ意味がない」そのような思いから、ヤコブは信仰生活における実践の大切さを語る。鏡を見て姿を整えても、その前を離れた瞬間に忘れてしまうようでは意味がないではないか、と。

とは言え、あの小噺でいみじくも語られているように、み言葉を聞いてそれを実際に行なうことは難しい。それほど私たちは弱く、自分勝手な存在である。「それでいい」とは思わない。しかしそこから始めるしかないのではないか。

「ありのままで、そのままで…」とは、近年流行りのメッセージだ。しかしキリストを信じる者にとって、それは弱い自分に居直ることではない。完璧でなくても、破れだらけでも、それでも「御言葉を行なう人になろう」という思いを抱いて生きることこそ大切だと思う。その不断の歩みを続けようとする私たちに「そのままでいいよ」というイエスの声が響いてくる。

今日のシメの言葉は、私自身もその言葉の下に立たされ問われている者のひとりとして、語りまた聞きたいと思う。

「御言葉を、聞いて、行なう者になりましょう。」