『 恵みの安息日 』

2015年8月23日(日)
出エジプト23:10-13,ルカ14:1-6

仕事が夏休みになり神戸から前橋のわが家に来た娘たちに、妻が「きょうはどこに行こうか?」と聞くと、「どこにもいかなくていい。だらだら休むために来たのだから」。確かに、休みになると「何かしなくては、どこか行かなくては…」と行動して、かえって疲れてしまうことがある。「休み」というものの意味を考えさせられる。

日本に一週間の暦が入ってきたのは明治以降である。西欧諸国が日曜日を休むのに倣ったのだが、では西欧人が何のために休むかというと、それは礼拝をするためであった。日々の仕事からしばし離れて神に祈り、自分を振り返る。そしていのちの営みを感謝して、新たな日常に戻ってゆく…。7日に一度の休みにはそのような意味があった。

モーセの十戒に定められた安息日の定めに従って、6日間仕事をし7日目は仕事を休んで礼拝をするようになった。それは神が天地創造を6日間で完成され、7日目は休まれたことに起源する。これに倣って人々は安息日(ユダヤ人=土曜日、キリスト教徒=日曜日)を守るようになった。

安息日の目的のひとつが「牛やろばが休み、働く人が元気を回復するため」(出エ23:12)であった。しかしただ休むだけでなく、いのちを与えてくれた神の恵みに感謝し、礼拝をささげる日とした。ところが次第にこの安息日は、掟破りは死刑に処せられるといった「恐ろしい掟」に変貌した。神の教えの絶対性が強調され、じわじわと人の暮らしを締め付けるようになってしまった。

神の掟の強制力に呪縛されてしまったのがイエスの時代の律法学者やファリサイ派の人たちであった。律法厳守を命じる彼らの目の前で、イエスは安息日にしてはならない「治療行為」を行なわれた。

注意したいのはこの人の病気(水腫)は、緊急性のものではないことだ。一日待って次の日でもよかった、にも関わらずイエスは敢えて安息日にその人を癒された。これは人々の信仰心を、人を豊かにするためではなく人を縛りつけるために用いていた人々への批判であり、挑発である。「安息日は恵みの日だ。人を息苦しくさせる日ではない。」このことを示すために、イエスは反感を買うことを覚悟で安息日の教えを破られたのだ。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2:27)

現代の私たちは、安息日をどう過ごせばよいだろうか。安息日の原点、即ち①仕事を休み、からだを休め、元気を回復する。②いのちの源である神の恵みに感謝する。このことを大切にしたい。教会の役員会などで遅くなり、かえって疲れることがある。申し訳ないと思う。なるべく早く終わるようにしたい。しかし、ただ休むのではなく、いのちが「いま・ここ」にあることの有り難さを、礼拝に集う仲間との出会いの中で祝福し合い、恵みを分かち合えるような時間を共に過ごしていきたいと思う。