2015年9月13日(日) 恵老礼拝
コロサイ書3:12-17
恵老礼拝にあたり、昨年に引き続き「旧讃美歌人気ランキング投票」を行なった。何人かの方から「旧い讃美歌はよく分からない」という声を聞いた。「讃美歌21」が発行されて間もなく20年。それ以降に教会に来られるようになった方にとっては、「旧い曲」ではなく、新曲なのだ。
文語訳聖書に至っては、半世紀以上前に使われていたものである。ほとんどの人にはなじみのない物と言えるが、しかし文語のリズム感はなかなかいいものである。ときにそのまま読むだけで力強く奥深いメッセージとなる。リードオルガンの伴奏も、いつものパイプオルガンの響きとはまた一風変わった趣がある。明治期の教会の人々にとって、それはものすごく斬新なものに聞こえたことだろう。
温故知新。時に古い時代のものをリスペクトをもって体験することによって、新しい時代が見えてくる。
「汝ら神に愛せらるる者なれば、慈悲の心、なさけ、謙遜、柔和、寛容を着よ」(コロサイ3:12)。歳を重ねるごとに謙遜・柔和・寛容が深まっていく、そんな老いの時を過ごせれば幸いである。「老いと死がなければ、人間は謙虚にはなれない。」(『人間の分際』曽野綾子)
「互いに赦せ、主の汝らを赦し給える如く」(13節)。赦すという行為は人生の最も崇高で美しい行為である。しかし私たちはなかなか人を赦せない。それは自我が肥大しているから、そしてまた神によって赦されていることを、本当のところでわかっていないからであろう。
「老年ほど勇気を必要とするときはない。誰でも人生の終盤は負け戦、昨日できたことが今日できなくても静かに受け入れる。人間の一生は孤独な戦いである。」(曾野、前掲書)。確かに、負け戦を引き受け、さまざまな力の衰えを受け入れることは、孤独で、苦しく、勇気のいることだろう。
しかしイエス・キリストを信じる信仰においては、それは決してみじめなことではない。「為すところのすべての事を、みな主イエスの名に頼て為し彼によりて父なる神に感謝せよ。」(17節)そのような信仰に生きる姿は、きっと次の世代の人々にとって大きな感化を与える歩みとなるであろう。
人生の終盤をどう迎え受け入れるか。そのことを平易な言葉で示してくれる短い詩がある。
“ありんこをあたため
てんとうむしをまもり
だいちのかたる むかしばなしに
しずかにききほれる
それがわれら おちばのやくめ
それがわれら おちばのねがい”
(工藤直子「おちばのねがい」)
戦後70年の節目のいま、この「おちばのねがい」を静かに抱けるような環境が大きく揺さぶられている。平和をあきらめない心を抱きつつ、誰もがこんな心を抱いて人生の終盤を迎えられる世界を目指したい。