2015年11月1日(日) <召天者記念礼拝>
ヨハネによる福音書3:13-21
人間は「死を発見した生き物」、つまり自分がやがて死を迎える存在であることを認識している、自然界で恐らく唯一の生き物であろう。だから人間だけが葬儀をし、家族や仲間との別れの悲しみを葬儀という形で表すのである。そしてこの「死の発見」から、「時間」「歴史」という概念も生まれた。「死の発見」は人間を人間たらしめる重大な出来事であったのだ。
このことは同時に、死に対する恐怖というものを人間の意識にもたらした。自分の存在、いま・ここにおいて意識を持っている自分の存在が、死によって終わってしまう。そのことへの不安や恐れは誰もが一度は抱くものであろう。そしてそんな不安・恐怖に対して、いずれの宗教も何らかのメッセージを語ってきた。
聖書が語るひとつのメッセージ、それは「永遠のいのち」というものである。「神はひとり子を与えられたほど、この世を愛された。御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)イエス・キリストは人間に「永遠のいのち」をもたらす救い主だ — それが聖書の道、キリスト教のメッセージである。
ではその「永遠のいのち」とは、具体的にはどんなものなのだろう?それは今、私たちがこうして意識を持って生きている状態が、永遠に続くということだろうか?実際に見てきたわけではないので、私にはよく分からない。かつて「天国はありますか?」と聞かれて「あると信じたいですね」と答えると、「そこは『ある!』と言い切ってほしかった!」と言われてしまった。頼りない印象を与えたのだろうが、それが正直なところである。新幹線の座席指定券を持つ人は「自分の席はある!」と確信できるが、「永遠のいのちを信じる」とはそういうこととは違うように思うのである。
昔の本で、東大の宗教学の教授であった岸本英夫さんが記した「死を見つめる心」というものがある。この本の中で、岸本教授は永遠のいのちのとらえ方を4つの分類に分けて分析している。①自分の肉体の永続を願うもの(不老長寿の秘薬)、②死後の世界を信じるもの(天国・極楽浄土の思想)、③自分の死後にも残るものの中に命を託するもの(芸術作品、わが子の成長等)。以上3つがいずれも命の時間的延長という発想によるものであるのに対して、もうひとつ、④現在の生の中に永遠のいのちを感得する、という道があることを記しておられる。今ここにある命を何らかの形で延長するということではなく、命の根源である永遠の存在に出会う、そのいまこの瞬間に永遠が訪れるという受けとめ方である。
さらに岸本教授はこうも記される。「人間とって死は実体ではない。私たちに与えられているのは現実の命だけである。だから一日一日をよく生きながら、同時に死に処する心構えの準備を続ける。死というのは人間にとって、大きな、全体的な『別れの時』なのではないか。」この考え方に、私は大きく心惹かれるものを感じた。
その「別れの時」をふさわしく迎えるために、平素より今を大切に生きる。イエス・キリストの教えの中に、命の意味を知り、命の源に触れる体験をする。「神さまは永遠であられる」そう信じて、永遠なる存在と触れ合う。その「今・この時」「この瞬間」に「永遠のいのち」というものが私たちを包んでくれる。そう考えるならば、永遠のいのちは「確かにある!」と、言い切ることができると思う。