2015年11月8日(日)
創世記12:1-9、ローマ4:13-25
誰の人生にも、節目に進路選択の決断の時がある。進学、就職、転職、結婚…。そしてその決断はしばしばその人の人生を左右する。熟考の上にはっきりとした根拠を持って決断する人もいるだろう。一方、理由ははっきりしないけれども、「こっちだ!」という根拠のない確信に導かれた人もいるだろう。
作家の村上春樹氏は、若き日に神宮球場でのプロ野球の試合観戦中に「小説を書こう!」と決意したという。それは何の前ぶれもなくやって来た直感、または霊感のようなものだった、と。その決断から毎年ノーベル賞候補になる作家の歩みが始まった。
今日の聖書の箇所にも、明確な理由がないにもかかわらず、ひとつの決断に人生を委ねていったひとりの男が登場する。イスラエル民族(ユダヤ人)の父祖となる、アブラハムである。
多くの人の中から、主なる神はアブラハムを選び、語りかける。「あなたは父の家を離れ、わたしの示す地に行きなさい。あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する。」この言葉を受けて、アブラハムは旅立ちを決意する。アブラハムの召命の物語である。
①彼が住んでいたカルデヤのウル、またハランという街は、いずれも栄えた街で、彼はそこそこの財産を持ち、安定した暮らしを営んでいた。②召命を受けた時、アブラハムは75歳、人生の晩年を迎えていた。③「大いなる国民とする」という約束にもかかわらず、その時点でアブラハムにはまだ子どもがいなかった。いずれも、旅立つことを躊躇させてもやむを得ない状況である。
召命に応えればどんな見返りが保証されるのか、その時点では形あるものは何も示されない。ただ神の言葉が示されただけ、いわば「口約束」である。人生の路線変更という一大決心をするにはあまりにも情報不足である。しかし彼は旅立った。まるで野球の試合中に霊感に打たれて小説家になることを決意した男のように。
創世記に記されたその後のアブラハムの姿は、ローマ書でパウロが記すような「模範的で立派な信仰者の姿」とは必ずしも言えない。結構人間的な弱さもさらけ出している。しかし彼はそんな弱さをかかえながら、それでも神を信じ、その言葉に従って旅立ったのだ。その信仰見て、「主はそれを彼の義と認められた。」(創15:6、ロマ4:3)
いったい、信仰とは何だろう。「信じればこんないいことがある!」と100%の確信を持つ姿、1ミリも疑うことのない態度のことだろうか?いやむしろ、信じ切れない部分・疑いを抱く心も含めて、それでも「信じる側に賭ける」(パスカル)、それが信仰というものではないだろうか。
「信じます。信仰のない私をお助け下さい。」(マルコ9:23)