2015年11月29日(日) アドヴェント第一主日
イザヤ52:1-10、ローマ10:14-17
今年もアドヴェントを迎えた。ろうそくに火を灯しながら、救い主の降誕を迎える準備をしよう。
「おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(イザヤ7:14)「今日ダビデの町で救い主がお生まれになった。この方こそ主メシヤである。」(ルカ2:11)イエス・キリストの誕生を告げるこれらの言葉は、まさに「よき知らせ」(エヴァンゲリオン)である。
「いかに美しいことか、良い知らせを伝える者の足は。」(イザヤ52:7、ローマ10:15) イザヤの語る「良い知らせ」とは、バビロン捕囚からの解放と祖国への帰還であった。しかしその言葉を引いて語るパウロにとっての「良き知らせ」は、他でもなくイエス・キリストによって与えられた救いの出来事である。
「エヴァンゲリオン」という言葉は「福音」と訳され、イエス・キリストの救いを表すものとして聖書の重要な概念となっていく。しかし元々は違う状況で用いられることの多い言葉だった。それは敵との戦いに勝利したことを伝える、伝令者の知らせのことだった。ペルシャとの戦いに勝利したことを伝えるため、マラトンからアテネまで42.195kmを走り、知らせを伝えた後息絶えた伝令の故事(マラソン競技の語源)が有名だ。「エヴァンゲリオン」とは軍事的な事柄と関わりを持った、血なまぐさい言葉であった。
「臨時ニュースを申し上げます。帝国陸海軍は本日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり。」この季節を迎えると繰り返し思い起こす「知らせ」の言葉である。1941年12月8日、軍国主義教育の時代、その開戦の知らせを「よき知らせ」として聞いた人もいただろう。しかしその後戦線は泥沼化し、やがて45年8月の「玉音放送」となる。
多くの人が涙を流して聞いたという敗戦の知らせ。しかしそれは「もう二度と戦争はしてはならない」という不戦の決意へと発展し、戦後の日本の歩みを決定づけるものとなった。戦後70年間、ひとりたりとも戦争で人の命を殺めることのなかった戦後日本の歩みは、あの敗戦の知らせから始まった。その意味で、それは私たちにとって「よき知らせ」だったのではないだろうか。
一方、日本との戦争に勝利した「よき知らせ」を、パレードを行ない万雷の拍手と歓声で迎えたアメリカは、その後の歴史の中でもためらうことなく戦争への道を繰り返し歩み、やがて泥沼のベトナム戦争、アフガン・イラク戦争へと至った。
いったい「よき知らせ」とは何だろう?神の示される「エヴァンゲリオン」とは、どのようなものなのだろうか。
ひとつの言葉が思い浮かぶ。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ2:4) これが神の示される「よき知らせ」ではないだろうか。
今また世界は、新たな争いの時代に向かおうとしている。パリで行なわれたテロに対して、シリアでは空爆が報復としてなされた。そしてそんな「戦争の時代」に、私たちの国も前のめりになって自ら乗り込んでいこうとしている。
そんな中、パリのテロで妻を失ったフランス人ジャーナリスト、アントワーヌ・レリスさんの、インターネット上での文章が注目を集めている。コンサート会場で銃撃され殺された妻の遺体と対面した時は「彼女を暗闇の中に置き去りにしたようで、拷問のようだった」。しかし彼はこう綴る。「(テロリストに向けて)君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。」残された幼い息子についてはこう語る。「彼には世界に目を開いて生きてほしい。世界をより美しい場所にする一人になってもらいたい」。最後に記された言葉には、胸をえぐられる。「テロはイスラム教の産物ではない。問題は宗教の名の下に操られた人々だ。人さえためらいなく殺せる、そんな盲目的な憎しみに、私たちは愛で答えよう」。
「憎しみがあるところには愛を」と祈ったアッシジの聖フランシスコ。その祈りの言葉を体現しようとしている人がいる…その事実に心打たれた。憎しみに対して愛で答える ― それが「よき知らせ」ではないか。そしてそのような「よき知らせ」を地上に紡ぎ出す心、すなわち愛の力を伝えるために、救い主はこの世に来られた。