『 心の扉を開いて 』

2015年12月20日(日) クリスマス礼拝
ルカによる福音書2:1-7

ルカのクリスマス物語は、宿屋の客間には救い主を迎える「余地」がなく、家畜小屋でお生まれになったというストーリーだ。CSのページェントで歌う「宿屋の歌」(これもさんびか)の歌詞に、こんな言葉がある。「♪ 今もずっとイエスさまは、泊まるところをお探しです/私たちもイエスさまを、心開いて迎えましょう。」この歌は救い主の降誕という出来事を、2000年前のことだけではなく私たちの「今」という時の事柄として受けとめようとしているように思う。私たちの心の中に、救い主をお迎えする「余地」はあるだろうか。それは私たちが空けようと思い備えをしていなければ、用意することができない場所である。

私たちの心の中は、すぐにいろんなことでいっぱいになる。仕事の忙しさ、将来への心配事。自分の快楽や欲望を満たしてくれそうな誘惑。人への羨みややっかみ、怒りや憎しみの思い。有頂天に登りつめるような自惚れ、そして「人に弱みを見せるものか!」と強がる心。そういうもので心がいっぱいになっている時、そこにイエスを迎え入れる余地はない。

そんな時、聖書の言葉に向き合い、鏡に映すようにして自分の姿を顧みることを大切にしたい。私たちがそこで自分の姿の弱さや不完全さに目を開かれる時、初めてそこに、まるで砂漠の砂が雨の水を求めるように、神の救いを願い気持ちが現れる。そこにこそ、救い主を迎え入れる余地が生まれる。それは私たちが備えようと思わなければ、用意できない場所なのである。

ヨハネの黙示録には「私は戸口に立って叩いている。私の声を聞いて戸を開ける者があれば、中に入って一緒に食事をするであろう。」というイエスの言葉が記される。この聖句を元に描かれた『世の光』(H.ハント)という絵がある。ランプを持ち扉をノックするイエス。ふと見るとその扉にはノブがついていない。内側から開く者がなければ空けられない扉である。

イエス・キリストによる救いとは、外から無理やりに扉をこじ開けるように迫ってくるものではない。求める者が心の扉を開く時、初めて与えられるものなのである。私たちの心の中に救い主をお迎えする場所を作り、そしてイエスが叩かれる小さな戸音を聞いたら、ためらうことなく心の扉を開いて、救い主をお迎えする者でありたい。