『 呼びかけに答える 』

2016年1月17日(日)
サムエル記上3:1-10,ヨハネ福音書1:43-51

今日は阪神大震災からまる21年の日である。私は震災当時は神戸の住民ではなかったが、その後ボランティアに出かけたことがきっかけとなって神戸の教会に招聘され、17年間神戸の教会で牧師をつとめた。先輩の牧師から「震災の神戸の教会に来てくれないか」と声をかけられた時、「これを断ったら一生後悔する」という思いでお受けすることを決意した。その時の思いをひと言で表現するならば、「呼ばれた」という言葉に尽きる。

内田樹さんは、修士論文を書くためにレヴィナスという哲学者の本を読んでいた時、本の向こうから「呼ばれた」という経験を書いておられる。そこに書かれてある内容は極めて難解であり、ひとつも理解できなかったが、「ここには生涯かけて取り組むものがある。」と確信されたという。

「召命」という言葉がある。クリスチャンになる決断をしたり、特に牧師になる志を立てる時によく用いられる言葉である。それは、自らが熟考し納得して選択する、というよりは、「呼びかけに答える」という経験に近いと言えるかも知れない。

旧約聖書の箇所は、後に大預言者として活躍するサムエルの召命物語だ。まだ幼かったサムエルは、神殿の祭司・エリのもとである夜、自分の名前を呼ぶ声を聞く。「それは神さまからの呼びかけだ。」と悟ったエリは、呼びかけに答える言葉をサムエルに教える。「しもべは聞きます。主よ、お話し下さい。」この思いをもって神の言葉を聴く、ということ。それが最もふさわしい祈りの姿であり、呼びかけに答える者としての在り方であろう。

とは言っても、神の呼びかけは、ラジオやオーディオのスピーカーから流れてくるような「音声」で届くわけではない。どんな風に、どんな時にその呼びかけは聞こえてくるのだろうか。私たちはどうすれば、それが神の呼びかけであると気付くことができるのだろうか。それはその時にすぐ分かる、というよりも、多くの場合、後でふりかえる時に分かるものではないかと思う。

フィリポはイエスからの呼びかけを聞いて、まっすぐにイエスに従った。しかしフィリポからイエスの話を聞いたナタナエルは、「ナザレから何か良いものがでるだろうか。」と最初はその招きを懐疑の思いで受けとめた。しかしその後イエスと出会い、言葉を交わし合う中で気付きが与えられ、最後はイエスに従う者となった。神の呼びかけとはそのように、最初はとてもそうとは思えない形で示されることもあるのだ。フィリポのようにすぐに気付ける人ばかりではない。ナタナエルのような遅い気付きの人もいるだろう。それでもいいのではないか。

神の呼びかけ、それは強く大きな声ではないかも知れない。心の耳を研ぎ澄まさなければ気付けないような、はるかに遠い声かも知れない。あるいはずい分後になって気付くような、すぐには分かりにくい声なのかもしれない。しかし気付いたならば、心を開いて「しもべは聞きます。主よ、お話し下さい。」と答え、その招きの方に向かって小さな一歩を踏み出せる者でありたい。