『 パンも言葉も分かち合う 』

2016年2月7日(日)
申命記8:1-6 ヨハネ福音書6:1-15

「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる」。イエス・キリストが荒野の試練の際に、サタンの誘惑に対して返された言葉である。人間はパン(=物質)だけで生きるのではなく、神の言葉(=精神、霊)によって生きる…そんなことをイメージさせる言葉である。

神学者ドロテー・ゼレは「人はパンのみに生きるのではない。それどころか、パンのみによって生きることは『死』を意味する。」と語る。世界がどうなろうと、誰が悲しんでいようと、「私には関係ない」。私は私の生きるのに必要なパン(モノ、カネ)が手に入ればそれでいい… そんな風に関係の断絶をすることは、生物としては生きていても、人間としては死んだのに等しいありようだ…。ゼレはそう言いたいのであろう。

こんな風にいろいろな解釈や想像を生み出す言葉であるが、これはイエスのオリジナルではない。申命記8章に記されたモーセの言葉の引用なのだ。イスラエルの民がエジプト脱出後、荒野を40年間さすらわなければならなかった運命。それをモーセは「主があなたがたに『ご自分の戒め』を与え、あなたがたを試すためであった」と語る。しかしその試練の間、食べ物がなくて困った時に神は「マナ」という不思議な食べ物を降らせて下さった…その一連の出来事について述べる際に語られたのが「人はパンだけで…」という言葉である。

この文脈からすると、モーセが語る「神の言葉」とは、「ご自分の戒め」として与えられた「律法」ということになるのであろう。「人はパンだけで生きるのではなく、律法を守ることによって正しく生きるのである」と。しかしここで注目したいのは、律法と同時に「マナ」も与えられたということだ。魂を導く律法と同時に、肉体を養うパン(マナ)も与えられたのだ。神の言葉だけでなく、人間にはパンもまた必要だ。

新約の箇所は、有名なイエスの「五千人の共食」の奇跡物語である。とても不思議な物語であるが、イエスはモーセのように「無から有を」生み出したわけではない。共食の基となるものがあった。それは少年が差し出した2匹の魚と5つのパンである。イエスは「たったこれだけ?」とは思わず、それをみんなで「分かち合った」。そこに奇跡が生まれたのである。

自分のパンのことだけを考えていた人間が、イエスによって神の言葉と出会い、分かち合う者へと変えられていく… そんな「奇跡」が起こる場所。教会はそんな場所でありたい。神の言葉を聞くだけでなく、聞いて行なう者に、すなわち「パンも言葉も分かち合える者」になりたい。