『 道を外れ、つまずくときにも 』

2016年2月28日(日)
ヨシュア24:14-24,ヨハネ6:60-71

地区牧師会のために40年近くぶりに電車で伊勢崎教会を訪れて、驚いた。JR伊勢崎駅および周辺地域が、40年前とは「まったく」違っていたからだ。私が高校時代、毎週土日に通い見慣れた町並みは、何ひとつ残っていなかった。そのせいだろうか、この日は2回も道に迷ってしまった。

まったく知らない道ならば、かえって地図を見たり下調べをしたりして迷わなかったかも知れない。「慣れた道だし、自分には分かっている!」という思いがあったからこそ、道を外れた、いや道を外れたことを知ることさえできなかったのであろう。

信仰生活でも同じことが言えるのではないか。「私は分かっている、理解している」そのような思い込みが、道を外れさせる、そして外れたことにも気付けない心象を生み出すのではないか。

約束の地・カナンに入るに際して、ヨシュアはイスラエルの民に向かって言う。「あなたたちは主に仕えることができないであろう」。民が道を踏み外し、他の神々を拝み出すことを、ヨシュアは予言する。イスラエルはあわてて答える。「いいえ、主を捨てて他の神々に仕えることなど、するはずがありません。」そのように固く決意表明をするのである。

しかしその後のイスラエルの歩みはどうだったか。ヨシュアの予言通り、何度も主を離れ、罪を重ねる歩みを繰り返しているのである。人間の決意・確信というものは、あてにならない。それほど人間は弱く、意気地のない存在なのではないか。

新約の箇所には、「私の肉を食べ、私の血を飲まなければ、あなたがたに命はない」というイエスの言葉によって、つまずきを覚える弟子たちの姿が描かれている。「血を飲む」という行為はユダヤ社会では忌むべき行為であり、人々はそんな価値観からイエスの言葉に敏感に反応したのだろう。

イエスは12弟子たちにも尋ねる。「あなたがたも離れていきたいか?」ペトロは、あなたこそ永遠の命の言葉を持っておられます。あなたから離れるはずがありません」と力強く答えた。しかし実際イエスが捕らえられた時には、「私は関係ありません。あんな人のこと知りません。」と言い、主を裏切った。

人間とはまことに弱いものだ。「それでいい」とは言わないが、そこから始めるしかない。「道を外してはいけない」と思いつつ、それでも道を外れてしまう私たち。だからこそ日々イエスの姿に従うことが大切なのである。それに道を外れることは、悪いことばかりではない。その外れた道の上で気付かされることがある。そこで人のお役に立つことがあるかも知れない。

伊勢崎教会からの帰り道、前橋駅から普段なら乗らない方向に行くバスに乗った。するとひとりの女性が大変困っておられた。財布の中に1万円札しかなく、バスでは両替できないと言われたらしい。コンビニに両替に行っている間に、このバスは出てしまう。次のバスは1時間後である。「困った!」という顔の女性。その時私はたまたま地区会計のお財布を持っており、大量の千円札を持っていた。なので「1万円、替わりますよ」と言って両替をしてあげた。道を外れ迷った体験を繰り返したその日、最後の最後にやはりいつもと違う道に進んだその先で、人のお役に立つことができた。

道を外れたその先には、そんな意外な出来事が待っているかも知れない。気負わず、自分自身の姿で、備えられた道を歩もう。