2016年4月3日(日)
ヨハネによる福音書20:19-31
私たちにとって「喜びの知らせ」の訪れは、それを分かち合う人が多ければ多いほど、喜びの度合いも大きくなる。昔から「喜びは分かち合えば2倍に、悲しみは分かち合えば半分になる」とはよく言ったものだ。しかし時おり、みんなが喜ぶその知らせを、率直に喜べない心境になることがある。
米映画『エアフォース・ワン』のひとコマ。アメリカ大統領が楽しみにしていた大学フットボールの決勝戦。自分の出身校が進出していたが、執務があってリアルタイムでは見ることができない。それでビデオに録って後で楽しみに見ようと思ってたら、廊下ですれ違った部下に「おめでとうございます。優勝ですよ」と言われ、ガッカリする…そんな場面があった。どんなにうれしい知らせも、それをみんなに先取りされてしまうと素直に喜べないこともある。
イエス・キリストのよみがえりの知らせを、ひとり喜べない弟子がいた。トマスである。他の弟子たちにイエスが姿を現わされた時、トマスは一緒にいなかった。彼らからイエスの顕現を聞かされたトマスは、その知らせを喜ぶどころか、逆に「私は信じない。その手の釘の穴に指を差し入れるまでは!」と言ってしまう。トマスはうれしくなかったのか?それほど疑り深い人間なのか?
トマスはかつて、他の弟子たちがイエスのエルサレム行きを「危険だから」と止めようとした時に、「我々も一緒に行って死のうではないか!」と言ったことがあった。また別の場面では、疑問に思ったことを分かったフリをせずにイエスに質問する姿が描かれている。とても熱心に、思いを込めてイエスに従おうとした姿勢を感じる。
トマスは先を越された悔しかったのではないかと思う。「疑い深い発言」とも取れる彼の言葉は、むしろ「私もイエスに会いたい!」という強い思いの裏返しなのではないだろうか。
そんな彼の前に、今度はトマスもいるところで再びイエスが現れる。そしてトマスに手を示し、「この穴に指を入れてみなさい」と語りかけられた。これは疑い惑うトマスの不信仰を叱られる振る舞いなのか?この言葉を、イエスはいったいどんな顔をして語られただろうか?
それが怒った顔ならば叱責だろう。しかし柔らかな笑顔と共にそう語られたとしたら?それはトマスの弱さも含めて受け入れ包み込む言葉となる。
しかしイエスは続けて語られる。「見たから信じたのか。見ないで信じる者はさいわいである。」イエスの言葉は私たちを暖かく受け入れてくれるだけではない。そこにはいつも鋭い問いかけがある。イエスの示される受容と問いかけ。「あなたはそれでいいのだよ」「でもあなたは本当にそれでいいのか!?」その両方を受けとめてこそ、信仰は成長へと導かれる。
いったい、信じるとはどういうことなのだろうか。それは「確認する」という態度とは少し違うものを言うのだと思う。確認できない、確証はない…だからこそ「信じる」。「見えないけど信じる」ではなく、「見えないから信じる」ということ。信じるとはそういうことではないか。
例えば私たちは、「この世の中には、地位や名誉やお金よりも大切なものがある」と信じている。「どこにそんなものがあるのだ!証拠を見せてみろ!」と言われれば、証拠を示すことはできない。しかしそれが確かにあると「信じる」。その信じる思いと営みから、大切な生き様が紡ぎ出されていくのだと思う。
「信仰とは望んでいる事柄を確信し、
見えない事実を確認することである。」(ヘブライ11:1)