『 共に食卓を囲む時 』

2016年4月10日(日)
ヨハネによる福音書21:1-14

「共に食事をする」という行為は、そこに居合わせた人同士のつながりをより深く親密なものにする。「今度一緒にメシ食おう」という誘いは、単に「一緒に栄養補給をしよう」という意味ではない。一緒に食事をしながら会話をし、気持ちを確かめ、より親しくなろうというメッセージがそこには込められている。

共に食事をする時、そこでどんな話をしたか、ということだけでなく、一緒に何を食べたかということも記憶に残る。脳に残る記憶だけでなく、体に刻まれる記憶として留まり続ける。久しぶりに会った友人とカニを食べたことがあった。何を話したかは忘れたが、二人で必死にカニを食べたことははっきりと覚えている。言葉による脳の記憶は忘れるが、味覚・嗅覚・噛み応えといった記憶は五感に刻まれる。

初代教会の礼拝の中で、礼拝の中心にあったのは「主の食卓」という共同の食事であった。我々の教会でも時折愛餐会をするが、初代教会では毎回の礼拝の中に共同の食事が組み込まれていたという。そしてその食事の中で、パンを祝福して割き、盃を回して飲むという行為が行なわれた。これは弟子たちとイエスとの「最後の晩餐」を再現するものであり、後にこれが聖餐式という儀式になっていった。

弟子たちにとってイエスと共に歩んだ日々の記憶は、共に食卓を囲むという体全体で受けとめたものとして弟子たちのうちに止まり続けた。最後の晩餐だけでなく、罪人・取税人との食事、五千人の人々との食事、また時にお金持ちの人とも食事を共にした記憶。それはあらゆる垣根を乗り越えて、人々と出会い共に生きようとされたイエスの生きる姿勢そのものであった。

よみがえりのイエスもまた、弟子たちを共に食事をされた。今日の箇所もそのひとつである。十字架の出来事のあと、元漁師の弟子たちはガリラヤ湖で再び漁に出かける。あいにく不漁であったが、イエスの助言によって大量へと導かれてゆく。捕れた魚を岸に引き寄せていくと、そこに「炭火が起こしてあった。パンもあった。」

イエスは言われる、「さぁ朝の食事をしなさい」。弟子たちはもはや誰も「あなたはどなたですか?」とは尋ねなかった。それがイエスであることが分かったからである。共に食卓を囲む時、そこに共にイエスもおられる… そして信じる人々を「共に生きる生活」「隣人のためにあるいのち」へと導いてくれる… それを確かめ合う交わりが、やがて初代教会の「主の食卓」となっていった。

2011年4月初旬、東日本大震災・被災地のひとつ石巻での体験が忘れられない。神戸から仲間の牧師と共にボランティアに出かけ、石巻栄光教会でのワークに入った。途中、再開して間もないスーパーに立ち寄り、差し入れの寿司を買って行ったら大変喜ばれた。午前中のワークを終えて、共に食卓を囲んだ。そこに居合わせたのは、石巻栄光教会の小鮒牧師夫妻、同志社大学神学部の学生数名、現地のボランティアスタッフ、それに名古屋からネットの情報を見てやってきた若者たち。彼らは中古車販売の仕事をしていて、被災地に役立ててもらおうと車を届けにきた帰りにボランティアワークに入ったという。初めて会った人、これまで何のつながりもなかった人、クリスチャンもいるしそうでない人もいる。しかしそこにいた人々の共通する思い、それは「この状況の中で、微力であっても困ってる人たちに何かをしたい」という思いであった。小鮒牧師が食前の祈祷をささげて食事を始めた。その時私は強く感じた。「ここにイエスも共におられる。この食卓にイエスもきっといて下さる」と。

「隣人のためにあるいのちは終わらない」― 私たちは先々週イースター礼拝でそんなメッセージを分かち合った。イエスこそ隣人のために生き、そのためにいのちを投げ打った人だった。そのイエスの「隣人のためにあるいのち」は、十字架の上でむなしく終わらない!今も生き続けて私たちを導いてくれるのだ!そのことを信じたいと思う。そして私たちもイエスのように、あらゆる垣根を乗り越えて食卓を共にし、共に生きる者となろう。