2016年5月22日(日)
イザヤ40:12-17、ヨハネ14:15-17
イエスの弟子たちに聖霊が降り、教会の宣教が始まったペンテコステ(聖霊降臨日)は、クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の三大祝日だ。しかし、クリスマス・イースターに比べて、日本では定着していない。その理由のひとつに「聖霊が降る…」という事柄自体の馴染みにくさがあるのかも知れない。
日本でも「神懸かり」とか「狐憑き」といった言葉があるが、あまりよい意味で使われることはない。「聖霊の導き」と聞いて、得体の知れない力に乗り移られて正気を失う… そんなニュアンスを受ける人が多いのではないか。
私自身、聖霊を受けて宗教的恍惚状態(トランス)に入るというような、強烈な聖霊の導きを感じた体験はない。そのような意味での「霊的感受性」の低い人は、聖霊の導きを感じることはないのだろうか?
『信じる気持ち』の著者・富田正樹さん(同志社香里高校聖書科教員)は、「早い宗教体験と遅い宗教体験」ということを言っておられる。その時その瞬間に聖霊を感じる「早い体験」に比べて、「あの時目には見えない不思議な力によって導かれていた」とあとで振り返って気付かされる「遅い体験」があるということだ。それならば、多くの人が心当たるのではないか。
私たちは目に見えるもの、手で触り確認できるものに囲まれて生きている。しかしそれ「だけ」で生きているのではない… 見えない力に支えられて生かされていると信じる… しかもそのことをその時その瞬間に明確に知るのでなく、あとになって気付かされる… そんな聖霊体験というものもあるのだと思う。私たちの様々な人生の選択において、自分一人で道を選んで歩んできたのでなく、不思議な導きで歩む道を示されたと信じること。それが信仰による受けとめ方である。
「主の霊を測りうる者があろうか」とイザヤは語る。神さまの不思議な導きの広さ・大きさを、人間が測ることなどできないということだ。目の見えない人が象を触る寓話のように、私たちが知り得るのは神の働きのほんの一部分に過ぎないとイザヤは語る。
イエスもまた、人々に注がれる聖霊の導きを語られる。ただ、「それを見ようとも知ろうともしない人は、これを受け入れることはできない」とも言われる。目に見えるものだけに頼る歩みを続けていると、神の導きに気付くことも少なくなる。
私たちが生きていく上で大切なものには、見えないものがたくさんある。風、空気、信頼、愛、そして神の導き。それら見えないものによって支えられて生きていることを覚えよう。そのことに「あとで振り返って気付ける」信仰を求めよう。