『 本当の自由を得るために 』

2016年5月29日(日)
申命記6:17-25、ヨハネ福音書3:3-8

自由というものは、私たち人間が等しく求める、何ものにも代えられない究極の価値であり理想である。しかし、私たちは本当に自由に生きているかというと、なかなかそうとは言えないのが現実である。すべての選択と決断を任されるとむしろ不安になり、誰かに決めてもらった方が安心する心理もある。人間の心の中には、束縛をきらい自由に決定したいという欲求と、自由に耐えきれず決断を誰かに委ね、一定の枠に収まっていたいという欲求とがないまぜになっているのではないか。

E.フロムの「自由からの逃走」は、ドイツになぜファシズム(ナチズム)が起こったのかについての研究であるが、ここで指摘されているのがまさに「自由に倦み疲れ、権威を求める人間の心理」である。第一次世界大戦後のドイツは、ワイマール憲法によって民衆には自由が与えられた。しかしそれは君主制、宗教や道徳、集団生活の衰退でもあり、社会構造の大変革でもあった。自由を謳歌できたのは主に富裕層の人々のみで、中産階級・貧困層はむしろ孤独や不安を抱えるようになった。それら庶民の不安を掬い取ったのが「偉大なドイツ・偉大な指導者」を力強く主張したヒトラーであった。

日本でも、国民の自由追及の権利について、現行憲法では「公共の福祉に反しない限りこれを認める」となっているが、これを「公益、および公の秩序に反しない限り…」と変えようとする動きがある。「下から」自由を調整しようというのではなく、「上から」自由を制限しようという考え方である。それを「いいんじゃないの。」と受けとめる人々も増えているように思う。

旧約聖書の民・イスラエルにとって、重要な出来事のひとつがエジプトの奴隷からの解放であった。自由を得た民。しかし彼らはその新たな自由な歩みを、律法というひとつの制約の下に置いてゆく。自分たちが得た自由を、野放図な欲望の発露としてしまわないように、神との契約である律法を「公共の福祉」として新たな歩みを目指した。

その律法を「公の秩序」と読み換え人々に強要していったのがイエスの時代の律法学者・ファリサイ派であった。イエスはことごとく彼らの律法主義を批判された。神の導きによって与えられる「自由」が最も大切なものだったからだ。

イエスは律法のすべてを「自分を愛するように隣人を愛する」という言葉に凝縮された。律法は我々が愛し合うために授けられた、縛り合うためじゃない ― それがイエスのメッセージである。このイエスの教えを受けて、パウロは語る。「あなたがたの自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)ここに「本当の自由」がある。