2016年7月3日(日)
ミカ7:18-20、ヨハネ福音書5:24-29
教会創立130周年に合わせて、記念誌の編纂に取り組んできた。教会の歴史を記述する際に、課題となるのがネガティブなあまり誇りに思えない出来事を記すかどうか、ということだ。昔の出来事であれば、まだ客観的に記すことも可能だろう。しかし直近の出来事、特に関係者がご存命だと筆が鈍ってしまうのが常である。
私たちは美しい出来事は大事にするが、醜い出来事からは目をそらそうとする。それが人間の本性だ。ところが、そういったありようとは違う歴史の記述を成し遂げた人々がいる。聖書の民・イスラエルである。
『聖書』とは「聖なる書物」、神に選ばれた「聖なる民・イスラエル」の物語 … そう思って読み始めたら、次から次へと人間の不祥事が出てくる。自国の歴史の暗部を批判的に記す歴史記述を「自虐史観」と言って攻撃する人々がいるが、ならば聖書は「自虐史観」のオン・パレードだ。禁断の木の実を食べ、嫉妬で弟を殺し、兄を騙して長子の特権を手に入れる。神との契約・約束に従わず、罪や過ちに染まった人間の醜い姿が記される。もちろん悪いことばかりでなく、信仰的な歩みも記されるが、基本的にいいことも悪いことも、包み隠さず記すスタンスが貫かれている。「神さまの眼差しはごまかせない」と信じていたからである。
けれどもそれは「自虐的」なことか?自分たちの民族の歩みに悲観的な人々を生み出したくてそのような記述をしてきたのだろうか?むしろ逆だ。そのような罪ある存在であるにも関わらず、それでも神が関わりを持ち続けて下さる…。ゆるしを与え悔い改めへと導いて下さる…。そう信じていたからに他ならない。
ミカは、名だたる預言者の中でも、最も厳しい言葉を多く残した人のひとりだ。為政者や指導者たちの権力争いや罪を厳しく問う言葉が次々に語られる。しかしそのミカが最終章に語ったのは、「さばきの神」ではなく「ゆるしの神」の姿であった。
一方、新約・ヨハネ福音書の聖書箇所で、イエスは「最後の審判」について語っておられる。今日の箇所だけを見るならば、イエスは「善いことをした者には救いを、悪いことをした者には裁きを下される神」について語っておられるように読める。しかし、新約聖書全般を広く見るならば、イエスの示された神は圧倒的に「救いの神・ゆるしの神」である。徴税人・遊女・罪人と呼ばれた人を訪ね神の救いを告げるイエス。病気や身体の不自由な人に「あなたの罪やゆるされた」と宣言されるイエス。放蕩息子のたとえ話。そして姦通の罪で捕らえられた女性の前で「罪なき者、石を投げ打て」と語り、だれも投げずに立ち去ると「わたしもあなたを罰しない。行きなさい、今後はもう罪を犯さないように」と語られた。
イエスが示された神。決して罪を見過ごしにはされないけれども、その罪ゆえに罰を降して終わり…とするのではなく、人がその罪を悔い改めて新しく歩むことを願っておられる神、そして罪をゆるし、救いへと導く神の姿である。
宗教という世界は、神や仏の前での自らのありようを正そうとする歩みを生み出す。それ自体は間違ったことではないが、陥りがちな落とし穴がある。「自らの正しさ」にそぐわない人を、いつしか裁くようになってしまうことだ。そのような落とし穴にはまっていた律法学者やファリサイ派の人々を、イエスは戒められた。
「どちらがより正しいか」という議論は、不毛な対立や切り捨てを生み出しかねない。むしろ「自分もひとも罪人であり、なおかつその罪をゆるされて生かされている存在だ」そんな風に互いの存在を受けとめ合えるところから、温かな関わりが生まれるであろう。130周年を迎えるにあたり、これからもそのような「ゆるされて生きる喜びを伝えること」を大切に歩みたい。