2016年7月17日(日)
列王記上17:8-16、ヨハネ6:22-27
子どもの頃「たたいてみるたびビスケットが増える」という歌を羨望の思いで聞いた。ドラエモンのポケットのように、何の苦労もなく無尽蔵に欲望を満たしてくれるものがあったらどんなにいいことか…。しかし成長の中で、「そんなものは存在しない」ということを学んでいった。
ところが現代の社会ではそれに似たことが起こる。参院選の直後、首相は記者会見で「さらなる経済対策を立てる。リニア建設を8年前倒しにする。」と述べた。すると株価が急上昇した。首相が何か生産的な活動をしたわけではない。しかし「これからもお金をバラ蒔きますよ!」と声を挙げると、無から有を生み出すように経済活動が上昇したのである。まるで錬金術。それを支えるのは人間の「欲望」だ。しかし財源は限られている。福祉、介護、教育、保育、年金といったところにしわ寄せがこないだろうか、それが心配だ。
今日は「朽ちない食べ物」についての二つの聖書の箇所である。旧約は、エリヤがアハブのもとを逃れていた時に、彼を養ったひとりのやもめの物語だ。彼女の手元に残った最後の小麦粉と油。これを食べてしまえば、あとは座して死を待つしかない… 。ところが「恐れずパンを焼きなさい」というエリヤの言葉に従うと、粉は尽きず、油がなくなることはなかった… 。
彼らは私たちの時代のように、モノがあふれかえる状況の中で「朽ちない食べ物」を得たのではない。これを食べたらもう何も無くなってしまう… そんなギリギリの状況の中で奇跡は起こった。私たちがピンチの時、神さまは必要なものを与えて下さる。そんなメッセージをこの物語は語りかける。
一方のイエス・キリストの言葉。「朽ちる食べもののためではなく、朽ちない食べ物のために働きなさい」とイエスは言われる。五千人の共食の奇跡を目の当たりにして「この人こそメシアだ!」と期待を寄せる人々に向かってそのように言われるのだ。欲望を満たす「見える食べ物」ではなく、魂を養う「朽ちない食べ物」を大事にしなさい… イエスはそんな風に言っておられるようにも思える。
しかし、イエスの元では、ある意味で本当に「朽ちない食べ物」が与えられたのかも知れない ― そんな風にも思うのだ。ただし、イエスは無から有を生み出す錬金術のような方法で人々を養われたのではない。弟子たちが「たったこれだけ!?」と思った二匹の魚と五つのパンを、「祈って、分かち合われた」。この分かち合う姿、それこそが「朽ちない食べ物」ではないだろうか。
イエスは私たちの欲望を際限なく満たす無尽蔵な食べ物を与えられるのではない。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という教えに基づいて、仲間と共に限られたものを分かち合おうとするところに「朽ちない食べ物」が与えられるのだ。