9月7日(日)
マルコによる福音書12:1~12
今年の夏、CSではずっとヨナ書の物語を読み続けてきた。異邦人の街・ニネベに神の裁きが下ると預言することを命じられたヨナ。最初はニネベの人々から迫害を受けることを恐れてその命令を拒絶し逃亡をはかるが、紆余曲折の後、勇気を持ってニネべに出かけ、神の怒りと裁きの言葉を伝えた。
するとニネベの人たちはヨナを迫害するどころか、真剣にその言葉を受けとめ、悔い改めた。すると神は街を滅ぼす計画を中止してしまった。これに対してヨナは怒る。「私の立場はどうなるんだ!」と。街の危機を呼びかけた人自身が、いつの間にかその危機の到来を待ち望むようになる。「そらみたことか!」と。『狼少年のパラドクス』である。
「神は不正を放置されず、必ず懲らしめ罰せられる」という信仰理解がある。そのように考えないと、人間の悪は歯止めを知らないものとなるのかも知れない。しかし、裁きを下すのはあくまでも神さまであって「人間であるあなたではない。」それがヨナ書の示すメッセージである。
神はニネベに対して行われたように、厳しい怒りを含んで人間と向き合われることがある。しかしそれは決してこの世を滅ぼすためではなく、悔い改めたならば赦し、新しく生きるよう導くためである。そこを履き違えると、いつしか私たちは悪を滅ぼす神の裁きを知らず知らずのうちに待ち望むようになってしまう。
今日の箇所は、旧約も新約も「神の裁き」について語られた箇所、しかもどちらも「ぶどうの実、ぶどう園」に関する言葉が記されている。聖書にはぶどうにまつわる話が多い。ぶどうの木 ― 決して太くはない幹から枝が分かれ、さらにつるが伸び、たわわに実をつける。その姿が、神と人(イスラエル)、イエスと教会のつながりを連想させるのであろう。
イザヤではしかし、よい実を結ばず、すっぱい実をならせるぶどうの木が語られる。またマルコでは、ぶどう園の主人の意に反して、反抗ばかりをたくらむ労働者の姿が描かれる。いずれも、神の恵みに反して、罪や悪に染まってしまう人間の姿を表している。
そしてそれらの「悪い実・悪い人間」には厳しい裁きが下されることも語られる。ヨハネ黙示録では「怒りのぶどう」が搾り桶に入れられ、踏みつけられ血が滴り落ちる様も語られる。まことに厳しい「神の裁きの図」である。
しかし、そのような厳しさをもって神が人間と(この世と)向き合われる本当の目的・理由は何か?それはこの世を滅ぼすためではなく、悔い改めへと導いて、この世を救うためである。そのように受けとめたい。「神が御子をつかわされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)のだから。